罪が語る地の果てで

動き出した松島グループ

 七月中旬、ある日の夕方、松島グループ支配人の高島明子はアパートの手前で車を止めて待っていた。

 佐久間商事に勤める多田秀樹が帰ってきたのは午後六時ちょうどであった。全体から受ける印象は、暗く、とても博士と呼ばれる人のようには見えなかった。

 あたりはまだ明るく、博士を尾行している男を認識するのは割と容易であった。

 彼女はその男が引き帰して行くのを確認すると、静かに車から降りて彼に近づいた。

 車で二十分ほどの料亭吉川に案内された彼は、そこで松島グループへの移籍を切望された。

「佐久間商事で、身動きが取れなくされてしまった博士を、松島がとても心配しています」

父親の借金返済のため佐久間商事に立て替えてもらっている三千万円は支度金として松島が用意し、加えて、研究に専念してもらうために、彼とその娘、奈々子には松島の家に住んでもらって、家事一切は松島で責任を持って対応するという、信じられないような話を聞いて、彼は困惑していた。

 医薬化学の分野では知る人ぞ知る天才であったが、こと人との関わりあっては全く子供と変わりなかった。

 彼は条件が良すぎるが故に信じることができずに悩んでいた。

「私一人であれば、何がどうなっても仕方ないと思っているのですが、娘がいますのであの子の人生まで巻き添えにすることはできません。だから、こんな良いお話をいただくと逆に不安になってしまいまして、先ほどから娘の顔が浮かんでくるばかりで…… 申し訳ないです。できるだけ早くご連絡させて頂きます」

彼は素直に胸の内を明かした。

帰り際に、彼は持ち帰り用に準備された折の詰め合わせを三食分渡され、話しが決まっていないこの段階では遠慮したかったが、それでも娘、奈々子の喜ぶ顔が眼に浮んで、不安の内にもそれを受け取ってしまった。

その夜、久しぶりのごちそうに目を輝かせながら箸をつける奈々子を前に、秀樹は松島グループからのオファーについて話した。

「あまりに話しがうますぎて、どうもしっくりこない。だいたいこんないい話しがあるのだろうか……」何とも信じがたい雰囲気であった。

秀樹は疑心暗鬼の中から抜け出せないでいたが、それでも心は大きく揺れ動いていた。

一方、話を聞いた奈々子は、松島の家での生活に非常に興味を持っていた。

(おなかいっぱい、おいしいものを食べることができるかもしれない!)

この思いが彼女を前向きにしていた。

「だいたいさー、パパは疑っているみたいだけど、どんなことが考えられるの? 私たちを騙して連れていって、どんなことができるの? そっちの方がよほどあり得ないっしょ! どんなことになったって、今より悪くなることはないよ」

「確かに……」

「疑ってみたってしょうがないでしょ。いつまでも佐久間なんかにいたらだめだと思うよ。パパは何もできていないでしょ。それに、これおいしいね。この三食っていうのが、何とも嬉しいね。これであと三日は私の頭も生きていけるよ……」

「……」秀樹は嬉しそに食事を続ける娘に微笑んでいた。

「もういいじゃない、ここらで何か変えないとこの棺桶からは抜け出せないよ。もし本当の話なのに疑ってばかりいたら、こんな失礼なことはないよ。それに私はもうこんなところにはいたくない…… おなかいっぱいご飯が食べたい、おいしいものも食べたい、肉が食べたい、私の脳が栄養を求めているのよ!」

秀樹はこの言葉に迷いが吹き飛んでしまった。

決断できない彼の背中を押すのはいつも奈々子の一言であった。

(確かにこれより悪くなることはないかもしれない、こんないい話に乗らないのは愚かかもしれない……)

「わかった。いくか……」

「行こう、何かが変わるよ、行こうよ、行こう!」

奈々子はとても嬉しそうだった。

夜の十時を過ぎていたが、

『遅い時間に申しわけありません、今日のお話なんですが、娘と相談いたしまして受けさせていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします』

秀樹は高島明子に電話を入れた。

母を早くに亡くした多田奈々子は父親の秀樹と二人暮らしであった。

大学で教壇に立ちながら研究を続けていた薬学博士の父親、多田秀樹は亡くなった父親の借金を抱え困惑していた時に、佐久間商事から言葉巧みに誘われ、財産を持っていない父親からの相続を放棄する方法もあったが、それは父親の名を傷つけることにもなり、さらにこれまでの父親の研究を無にすることになると説かれ、 彼は止む無く、佐久間商事に勤めることを条件に、父親の借金三千万円を無利子で借り受けること、さらには娘の高校進学の面倒を見てくれるという提案を受けた。

しかし、佐久間商事では思うような研究ができない父を心配して、高校生になった奈々子は何とか三千万円を返済したいという思いから日々の生活を切り詰め貯蓄を行っていたが、そのために彼女はその頭脳の源とも言える食費を切り詰め空腹の毎日を過ごしていた。

もともと父親の多田秀樹は知能が高く医薬化学の世界では第一人者と言われる研究者であったが、奈々子の知能はそれをはるかに上回り、そのことに気がついた父親は彼女のその知能を可能な限り人目に触れないように細心の注意を払っていた。

学校でも奈々子のそのことを知っているのは、親友の裕子と真紀の二人だけであった。

そんな中で高校二年生の一学期をスタートした奈々子は、 二人の親友に支えられ何とか空腹をしのぎながら日々の生活を送っていた。

裕子の家庭は父親が医者であったためかなり裕福で、奈々子は遊びに行くたびに空腹を満たして帰っていった。

真紀の母親もまた優しい人で、奈々子の事情を聞いて、ことがある度におにぎりやサンドイッチを用意し娘に持たせた。

それぞれが何とか日々をやりくりする中で、一学期も後わずかとなっていた。

話は戻るが、多田秀樹から連絡を受けた翌日、明子は、松島グループ会長のたか子に奈々子を見ておいて欲しいとの思いから下校時刻を狙って、二人で出かけて行った。

車の中から様子を見ていると、しばらくして奈々子が二人の友人と楽しそうに話をしながら校門から出てきた。

彼女を見たたか子はそのオーラの強さに驚いた。これまでに感じたことのない、とてつもないエネルギーを秘めているように見えて、たか子は一目で彼女に魅せられてしまった。

博士の移籍が大儀であったにもかかわらず、娘の奈々子を見てしまったたか子は、この娘を我が家に迎えいれることの方がはるかに大きな目的になってしまった。

「普通の子じゃないわね!」

「はい、私もそう思います。はっきりとしたことはまだわかりませんが、どうも能力は相当に高いのではないか、そういう噂があります。ただ、早くにお母さまを亡くされていますので、情緒面ではやや問題があるかもしれません」

「かわいい顔してるわね、あの愛くるしさはなんなのかしらね…… でも服が色あせてるし、革靴も汚れているわねー、気にならないのかしら…… 用意してあげてね」

たか子は、娘を見守る母親のように穏やかな眼差しで彼女を見つめていた。

「はい、すべて準備を進めています。 私も女の子のそういった面は特に気になりますので……」

「あんな娘がいたらいいわねー」たか子が切なそうにほほ笑むと

「でも会長、あの子の面倒を松島の家で見るということは、誰かが母親代わりをしなければならないということですよ」

 母親として奈々子に関わって行きたいというたか子の気持ちを察している明子が、そのことが必然的であるかのようにたか子の思いに向けて答えを導いていく。

「えっ、そうね…… でも私にできるかしら?」 彼女は明子に肯定して欲しかった。

「申し訳ないですけど、私は忙しくてとても手が回りません。会長に頑張っていただくしかないですね」

「それはうれしいけど…… 私みたいな者でも、あんな娘(こ)の母親になれるかしら…… せめて真似事だけでもできればうれしいんだけど…… 」

静かに奈々子を見つめる彼女はこれからの楽しみの中にもどこかぬぐいきれない悲哀が自らの運命と相まって、時折顔を覗かせるのはどうしようもなかった。

二人はそんな話しをしながら多田親子が引っ越しって来る日を心待ちにしていた。

秀樹が誘いを受け入れてから三日目の夜であった。

「すべての準備が整いましたので、明後日に退職の手続きとともに借入金の返済を一気に行う予定にいたしております。明日は通常通り、最後の一日を勤めて下さい。帰る時にもいつものように何も言わず帰って下さい」

「はい……」

「明後日は、弁護士がすべての手続きを行いますので、博士は家でお待ちください。午前十にお迎えにあがります。奈々子さんは明日から夏休みですから問題ないですよね」

事務的に話す明子であったが、その声はいつになく弾んでいた。

静かに一日を過ごしたあと、引っ越しの日がやってきた。

心を許した人

 七月二一日、多田親子は十時に迎えに来た高島明子に案内され、車で二十分ほどの松島邸へ向かった。

途中、連絡を受けた明子は、

「佐久間商事の方は、すべて順調に進んだようです。問題は何もありませんので、ご安心ください」

明子が助手席から振り向いて父親に説明した。

その傍らで奈々子はいつになく神妙な顔をして静かに坐っていた。

やがて車が松島邸に到着すると、まず二人はその屋敷の大きさに驚いた。入り口の門のところには警備員が常駐しており、まるで総理大臣官邸にでも入るような雰囲気であった。

玄関に入るとたか子が迎えに出てきたが、こんなことはほとんどないことであった。それだけ彼女がいかに二人を心待ちにしていたかということである。

「よくいらして下さいました。ほんとにうれしいです。どうぞお上がりください。奈々子さん、よく来てくれたわね、ほんとにうれしいわ、ありがとうね」

 奈々子にはその微笑がとても眩(まぶ)しかった。

「はじめまして、多田秀樹と申します。これが娘の奈々子です。よろしくお願いします」二人がそろって頭を下げた。

 最初に、二人はそれぞれの部屋に案内された。

 奈々子の部屋はドアを開けると、右の奥には扉のないベッドのおかれた一室があり、左はクローゼットが解放された状態であったが、その中には新しいセーラー服と皮靴が用意されていた。

その隣には何枚かの洒落た外出着、また引き出しの中には部屋着が数セット、ジャージから下着に至るまで必要なものはほとんど整えられていた。

フリースペースは十二畳ほどあり、新しい勉強机の上には、最新型のパソコンとスマートフォンが置かれていた。

それを見た奈々子は夢を見ているようだった。

「これ全部使っていいんですか?」彼女は案内してくれたメイドに尋ねた。

「はい、全てお嬢さまのために用意したものでございます」

「お嬢さまだなんて…… 恥ずかしい、貧乏人の娘ですから……」彼女は照れ臭そうに答えた。

一方、秀樹の部屋へは明子が付き添った。

部屋は奈々子と同様であったが、彼女は研究室についても説明を始めた。

屋敷続きに、会長の父親が建設した研究棟があり、そこを使ってほしいとのことで、相当なものが整えられているようだったが、それでも不足なものがあればすぐにでも用意してくれるとのことで、そこにも寝室があり、バスも用意されているらしい。

いずれにしても昼食のあと案内をしてくれるようだった。

秀樹は、そのままの服装であったが、奈々子は大好きなジャージに着がえてリラックスしていた。

テーブルに着くと昼食の料理が次々と運ばれてきたが、メインは奈々子のことを考え、お昼ではあったがステーキが用意された。

奈々子はスープをさらっと啜(すす)ったあと、大きな瞳を輝かせて鉄板の上でジュージューといっているステーキから目が離せなかった。

それを見たたか子も、明子もうれしそうに微笑んでいた。

「お恥ずかしい次第です」秀樹は奈々子の様子に恥ずかしいという思いもあったが、現実を隠す必要はない、我々が貧しい生活をしてきたのは事実だ。

彼女たちもそのことはよく知っているはずだ、そう思っていた。

ライスが運ばれてくると奈々子は肉を薄く切りながら少しずつ口へ持っていった。

「ご飯はお変りしてもいいんですか?」奈々子が平気で尋ねる。

「大丈夫よ、いくらでもありますから、しっかり食べてね」たか子が優しく答えてくれる。

「ありがとうございます」彼女はそれだけ言うと無言のまま食べ続けた。

彼女はライスをたくさん食べては、肉を少し食べ、またライスをたくさん食べる、というように繰り返していた。

それを見たたか子が、

「奈々子さん、お肉のお代りもありますから、しっかり食べてね」とやさしく微笑むと、奈々子は彼女の優しい瞳に魅せられた。

「会長さん、ありがとうございます。でもこんなお肉、二枚も食べたら罰が当たります…… 」

「そんなことないわよ、今まで頑張ってきたんだもの、罰なんて充たるはずがないわ、だから遠慮はしないで……」

たか子の優しさが奈々子の心にずんずんと突き刺さってきて、彼女が自分のことをどれだけ気遣ってくれているかということがよく分かった。

明子がメイドに指示して、二枚目のステーキが運ばれてくると、にっこりと笑った奈々子のピッチは一段と速くなり、彼女は生まれてこのかた、こんな満足感に酔いしれたことはなかった。

三人は、ひたすら食べ続ける奈々子を満面の笑みを浮かべ見ていた。

「会長さんにそんなに見られたら緊張します」

ふと顔をあげた彼女は一言だけ呟(つぶや)くと再び食べ続けた。

ようやく奈々子が満たされた表情で

「ごちそうさまでした。ふうー」と言ったタイミングで

「その会長さんっていうの、何かおかしいですね……」明子が口を開いた。

「えっ!」満足そうな顔をしていた奈々子が一瞬驚いて、目を見開いた。

「でも、お姉さん、おばさん、たか子さん、松島さん、いろいろ考えたけど、どれもしっくりこなくて…… 」奈々子が困ったように答えると

「すごいわね、ちゃんと考えてくれたのね……」驚いたたか子が大きな瞳で奈々子に語りかけた。

「奈々子さん、会長はこれからあなたのお母さん代わりをして下さるの……

だから一緒にお買い物に行ったり、お食事に出かけたり、場合によっては学校へ行くことだってあると思うのよ。そんなところで会長をどう呼ぶのかって、考えてみたら、『ママ』とか『お母さん』て呼ぶのがすごく自然な気がするんだけど、あなたがいやでなければ……」

すかさず明子が口をはさんできたが、

「それはだめです、会長に失礼です」慌てて秀樹が遮った。

「いえいえ、私はむしろ嬉しいですよ。奈々子さんさえ厭でなければ……」

たか子の少し祈るような思いも籠っていた。

「えっー、いいんですか、ママって呼んでもいいんですか?」

突然、満面の笑みで奈々子が驚いたように声を張り上げた。

彼女には、与えられた部屋にしても、クローゼットに用意された衣類にしても、さらにパソコンやスマートフォンを見ても、たか子がどれほど自分のことを大事に思ってくれているのか、そしてこの昼食…… 

彼女はこの環境を提供してくれたたか子がどれほど信頼に値する人なのか、十分すぎるほどよくわかっていた。

何よりも、優しく穏やかなたか子の大きな瞳が、奈々子に訴えかけてくるものは、彼女が今までに経験したことのない強くまっすぐで一点の曇りもなく、彼女を優しく包み込もうとする翼のようで、それに魅入られた彼女は既に身も心もたか子に全幅の信頼を置いていた。

そんな素敵な人を『ママ』と呼ばせてもらえるのであれば、もっと彼女に近づくことができる…… そんな思いが奈々子の安心感をさらに増幅していった。

「そう呼んでくれるのなら、私はすごくうれしいわよ!」

たか子が微笑みながら語りかけると

「呼ぶ、ママって呼びます。うれしい、ママって呼べる人が出来てうれしい!」

 奈々子の喜びようは尋常ではなかった。

「会長、そこまでしていただかなくても、この子は大丈夫です。こんなに万全の体制で迎えて頂いた上に、そこまでしていただくわけにはいきません…… 」

 父親が申し訳なさそうに言うのを奈々子は不安そうに見つめていた。

「博士、決して気を使っているわけではありません。子供のいない私でもこんなかわいい娘がママって呼んでくれるのなら、私にだって母親の真似事ができそうな気がしてとてもうれしいです。もし博士がお嫌でなければ、お許しいただければありがたいのですが……」

誠意にあふれるたか子の言葉に、

「私の方には、そんな嫌などということは全くありませんが、正直、少し不安になってます。この娘は信頼した人が自分を受け入れてくれるとわかれば、とことん甘えていく人間なんです。めったなことではそんなことにはなりませんが、距離の取り方がうまくできない娘なので少し気になっています」

秀樹は不安そうに思いを伝えた。

「それでしたら、お気になさらなくても大丈夫です」

秀樹の不安が想像できないたか子は快くその思いを受け止めた。

「じゃ、ママって呼んでもいいですか?」奈々子がうれしそうに念を押した。

「いいわよ、ママって呼んでちょうだい」たか子は優しい微笑みを浮かべながらそう返した。

昼食がすむと明子は秀樹を研究棟へ案内し、一方奈々子はダイニングでたか子と二人、話し始めた。

「奈々子さん、奈々子さんじゃなくて奈々子ちゃんて呼んでもいいかしら?」

「いいです、いいです、その方が可愛く感じるしね」

「じゃ、奈々子ちゃん、そのうちにお洋服を買いに行かない?」

「えっ、服はたくさん買ってくれているじゃないですか。あれだけあったら、三年は大丈夫ですよ」

「でも奈々子ちゃんはかわいいから、もっといろんなお洋服を着て、女の子であることを楽しんだらいいと思うの…… 」

「かわいいだなんて照れるー、でもママはそんな女の子が好き?」

たか子は、初めてママと呼ばれてドキッとした。

この娘は何のためらいもなくさらっとママという言葉を口にした。その呼び方があまりにも自然で、そこに何の違和感もないことが彼女はとてもうれしかった。

「そういうわけじゃないけど、もう少しだけ気をつけたらとてもかわいい女性になるから、ママはそんな奈々子ちゃんも見てみたいような気がするの」

自分自身で、自然にママと口にしたことが信じられなかったが、心地よさはいつまでも消えそうになかった。

「じゃ、いきます。でも私、センス全くないですから…… だからママにお任せになっちゃいますよ」微笑んで奈々子が言うと

「ママもセンスないけど、明子さんがいるから大丈夫よ」

「そりゃ、安心だね、ところでママっていつもは何時ごろに寝るんですか? 」

「えっ、だいたい十一時ぐらいだけど、急にどうしたの? 」

たか子が不思議そうに尋ね返すと

「ううん、何でもないけど、この家の消灯は何時ぐらいかなって思って…… 」奈々子はにこにこしながら答えた。

夕食はお祝いを兼ねて、料亭吉川に出向いた。

料理は以前いただいた折を遥かに凌ぐ御馳走で、奈々子はただひたすら「おいしいね、おいしいね、幸せ」こんな言葉を繰り返しながら満面の笑みを浮かべ、ただひたすら食べ続けた。

秀樹は恐縮がってあまり食が進まなかったが、それでも娘がこんなにうれしそうに食事をしている光景を見て

(松島へ来て良かった、本当に良かった……) ただそう思うのであった。

「博士、研究棟の方はどうですか、施設や機材はどうですか? 」

たか子が尋ねると

「いやもう十分です。お父様も化学者だったんですね、あの施設を見ただけでその才能が想像できます」

「そうだったんでしょうね、でも無理矢理会社を押し付けられて、あんな施設を作ってはみたものの、ただの道楽になってしまいましたね。でも博士があそこを使ってくださるのなら、亡くなった父も喜んでいると思います。必要なものがあれば遠慮せずにおっしゃってください 」

時折、目を細めて穏やかな表情で奈々子を見つめ、博士に話しかけるたか子はこの親子と食事ができることにこの上ない喜びを感じていた。

「実はお世話になった初日からこんなお願いをするのは心苦しいのですが……」秀樹が話しにくそうに切り出した時

「遠慮なさらずにおっしゃってください」明子が促した。

「実は薬を作らせて頂きたいのです……」

彼は、がんの特効薬サクマは、もともと自分が作り出したものなのだが、単価が高すぎることに懸念を抱いていて、サクマを作った時に三種類の特効薬を内々で作っていたのだが、佐久間商事を信用することができなかったので、そのうち製作に時間を最も要するもの、経費は最も高くつくものを佐久間商事に提供していた。

この度はナンバーワンを作りたいと思っていて、経費はサクマの約二割、制作時間は約三割でできると考えていた。

この薬は彼が信頼する後輩の会社で、既にひ臨床実験が完了しているのだが、企業が弱小で経済的信頼性がないということからなかなか臨床実験に移れていないのが現状であった。

このため彼は松島グループが表に出てくれれば、臨床実験への移行も速やかに進むと考えていた。

この件については、直ちに松島グループの製薬部門を担う博多の松島薬品(株)が博士の後輩の企業、中山製薬株式会社と調整に入ることになった。

食事を終えて帰宅した、その初めての夜、十一時前のことであった。

ドアをノックする音に、(誰だろう……) そう思ったたか子が

「どうぞ」と言うと、枕を抱えた奈々子が静かに部屋へ入ってきた。

「どうしたの、眠れないの?」たか子が優しく尋ねると

「ママ、一緒に寝てもいいですか?」

昼間は見せなかった不安そうな奈々子が小さく呟くように尋ねた。

「えっ、どうしたの、ベッドは一つしかないけど、一緒で大丈夫? 」

「大丈夫、絶対大丈夫だから、一緒に寝てもいい? 」

思いもよらない奈々子の行動に、たか子は少し驚いたが、それでも不安な初めての夜を自分に託してくれた彼女の思いがとてもうれしかった。

「じゃ、いらっしゃい」たか子は優しく布団の端を少し持ち上げて奈々子を招いた。

「ママ、ありがとう、大好き」

急に笑顔になった奈々子は急いでベッドの中に入ってきた。

「初めての家で不安になったのね」たか子はそう言いながら奈々子の髪を優しく撫でてやった。

「ママいい匂い」

こんなに安心したような奈々子は想像できなかった。目をつぶって眠ろうとしている彼女を見ていると、その安心感が伝わってくるようで、たか子は

(本当に良かった、本当に来てもらってよかった……)

そう思いながら彼女を軽く抱えるように自分も眠りにつこうとしていた。

しばらくすると奈々子は深い眠りに落ちていった。

翌朝七時半に洗面を終えたたか子が廊下に出てくると、明子が慌てた様子で彼女に近づいてきた。

「会長、大変です。奈々子さんがどこにもいないんです…… 」

そこへ父親も不安そうな顔をしてやってきた。

「えっ、奈々子ちゃんだったら私の部屋で寝ているわよ」

たか子が微笑ながら言うと

「ああ、良かった、驚きました」安心した明子がそう言った時

「えっ、何時からですか?」驚いた父親が尋ねる。

「昨夜の十一時からですよ」たか子が不思議そうに答えた。

「えっ、昨夜からずっと寝ているんですか? 」驚いた父親が目を大きく見開いて尋ねた。

「ええ、ずっと寝てますけど…… 何かあったのですか? 」

さらに不思議そうにたか子が尋ね返すと

「あの子がそんなに眠るなんて信じられません。元来あの子は眠れない子なんです。眠ろうとすれば数式が頭の中を駆けめぐるらしいです。頭の中でそれを追いかけ始めると目がますます冴えて眠れなくなるらしいです。どんなに長くても二時間も寝たことはないはずです…… 会長のおかげです。初めて安心したんでしょう。おそらくあの子にとっては初めての経験だと思います。本当にありがとうございます」

秀樹は目にうっすらと涙を浮かべながら何度も何度も頭を下げた。

彼の、言うに言われない奈々子に対するこれまでの思いは、到底想像できるものではなかったが、表には出さない彼の大きな苦悩のひとつが安らぎに変わろうとしていた。

「私は何もしてませんよ、ただ一緒に寝てあげただけですから…… でもその話が本当だったら私も嬉しいです。私のところであの子がそんなに安心してくれるのならこんな嬉しいことはないです。本当に来ていただいてよかったです。お礼を言いたいのはむしろこちらの方です。本当にありがとうございます」

そんな話をしているときに、奈々子が目をこすりながらたか子の部屋から出てきた。

「あっ、おはようございます、こんなに寝たの、生まれて初めて! 」

「それはよかったわ、昨夜ママの所へ来たときは心配したわ…… 」

「奈々子さん、早く洗面済ませてね、すぐに朝食になるから……」明子がそう言うと

「はーい、初めての朝、最高!」彼女は初めて清々しい朝を迎えた。

奈々子が洗面に向かうと秀樹が申しわけなさそうに話し始めた。

「会長、あの子は完全に会長のことを信頼してしまっています。申し訳ないのですが、おそらく会長が嫌になるぐらい、あの子は会長につきまとうかもしれません」

「大丈夫ですよ、あの子が安心して眠っているのを見ていたら、私もすごく安心しました。母親というものがどういうものかはわかりませんが、私にも覚悟はできています。それだけの思いを持って、あの子と向き合いたいと考えています」

「… 」秀樹はたか子が想像している以上のもっと激しいことになるのではないかと心配していた。

「博士、私にべったりになるってことですよね 」

博士の心配そうな様子を見たたか子が、そう付け加えた。

「はい…… そういうことなんです、私が心配しているのは…… 」

「博士、正直に言いますが、私は結婚するつもりはありません。でもその私が、奈々子ちゃんを相手に母親の真似事ができる、それは何にも勝る喜びなんです。だから私は、どこまでもあの子に付き合っていくつもりです」

たか子の決意を聞いて、秀樹は目頭が熱くなるのをどうすることもできなかった。

「ありがとうございます。このオファーの話をいただいたとき、即答できなかった自分が恥ずかしいです。でも会長、何かあったり疲れたりしたら、遠慮なさらずにぜひ言ってください 」

会長に嫌な思いをさせるわけにはいかないという彼の懸命な想いであった。

それから三日後、奈々子はたか子と明子に連れられ、たか子が行きつけのブティックへ出かけ、その帰り道、三人を乗せた車がレストラン・マロンの前を通りかかった時、奈々子が、突然嬉しそうにたか子に向かって言った。

「ねえママ、あそこによって行こうよ。お願い!」

「何が食べたいの?」たか子は奈々子を覗き込むように優しく尋ねると、

「あそこのね。パフェがおいしいの。ずっと食べたかったんだけどお金がなくて我慢していたの。でも、今日はママと一緒だから食べれるでしょう。あそこのパフェを食べるのが夢だったの。だからお願い!」

奈々子の強い希望で、中に入った三人は一番奥の目立たないところに席をとった。

一方、友人の裕子と真紀はこの三日間というもの、奈々子の行方を捜し続けていた。

アパートが突然、空室になって誰も住んでないことを知った二人は慌てた。何の連絡もなく奈々子が突然に消えてしまった。

父親の勤めていた佐久間商事まで出かけて尋ねてみたが、教えてはもらえなかった。受け付けの人も何か知っているような感じではあったが、態度が悪くて長いはできない様子だった。

今日も心当たりを探した二人は疲れ果ててこのレストランにやってきた。

店に入った裕子が、ふと左奥を見た時、三人連れのゲストのうち、こちら側に、背を向けている女子が何となく奈々子の後ろ姿に似ているような感じがしたのだが、どうも服装が奈々子らしくなく、しかし、しばらく見つめていると笑いながら横顔を見せたその少女はまさに奈々子だった。

「真紀、あれ見て、奈々子でしょ。奈々子よ、間違いない!」

「そうねえ。確かに、似ているわね」

二人はしばらくの間、立ったまま彼女の方を見つめていた。

それに、気が付いた明子が、奈々子に呟いた。

「奈々子さん、お友達じゃないの?」そう言って目配せをした。

無意識に後ろを振り向いた彼女は、裕子と真紀を目にして、慌てて正面を向き直し、少し俯いてしまった。

「やばい背後霊…」奈々子はそう言うと俯いたまま後ろを見ようとはしなかった。

一方、裕子と真紀は、不安そうに奈々子を見つめながら一歩ずつ彼女に近づいてきた。

裕子が右から覗き込もうとすると、奈々子は左を向き、左から覗き込もうとすると右を向いた。

それを見ていたたか子か、ニコニコしながら、

「奈々子ちゃんどうしたの、お友達じゃないの?」

その時裕子が確信した。

「奈々子…… 奈々子何してたのよ! 」

裕子が驚いてそして微かに涙ぐみながら言った。

「テヘッ、ばれた、見つかっちゃった 」

その傍らでその様子を見ていた真紀は、高島明子を見て驚いた。

(松島グループの高島支配人に間違いない……)

 涙ぐんでいた彼女は一瞬で固まってしまった。

「奈々子ちゃん紹介してちょうだい…… 」たか子が微笑みながら彼女に言った。

「あのねママ…… 」

「えっ、ママって!」裕子が驚いて少し声が大きくなった。

真紀も目を大きく見開き奈々子を見つめた。

「すいません、どういうことなんでしょうか?」裕子がたか子に尋ねた。

「えっ!」驚いたのはたか子の方だった。

「奈々子のパパと結婚されたんですか?」

「どうぞお座りになって……」たか子は椅子に座る裕子と真紀に向かって静かに話し始めた。

「実はね、奈々子ちゃんのお父さんにうちの会社に来ていただいたの、ご存知かもしれないけどお父様はとても優秀な博士で、研究に打ち込んでいただくために、これを機会に、私が彼女の母親代わりをすることになったのよ」

静かに説明をするたか子に向かって

「でも、ママって…… 」真紀が不思議そうに尋ねた。

「それはね、母親代わりなんだから、会長って呼ぶわけにもいかないし、ママって呼ぶことになったのよ」

明子が微笑ながら真紀に話すと

真紀は「やはり、松島グループの会長さんなんですね……」と確認するように言う。

「よくわかったわね」明子が感心したように微笑んだ。

「いえ、お見受けした事は無いのですが、あなたは支配人の高島さんですよね。高島さんは私の憧れなんです。私の目標としている人なんです。あなたのような仕事ができる人になりたい、私はそう思って頑張っています。握手してくださいますか? 」

真紀は訴えるような目で明子を見つめた。

明子が立って右手を差し出すと、真紀も立ち上がり両手でその手を握って「嬉しいです、本当に嬉しいです」微笑みながら握手の手をすぐには離そうとはしなかった。

「明子さんはファンが多いのね、いつだったかも、ブティックで同じようなことがあったわね 」たか子は優しく微笑みながら真紀を見つめた。

その間、奈々子と裕子は驚いたような表情で真剣な真紀に見入っていた。

「あなた方も、何でもお好きなものを召し上がって下さいな 」

たか子が微笑ながらそう言うと二人は喜んで「ありがとうございます」と頭を下げた。

「奈々子は何注文したの? 」裕子が尋ねると、

「例のやつ…… 」奈々子はにっこりと微笑んでそう答えた。

「やっぱり、あの念願のやつね…… 」裕子が笑いながら返すと、ちょうどその時、奈々子が注文したジャンボスペシャルマロンパフェが運ばれてきた。

奈々子の顔よりも大きいのではないかと思われるようなそのパフェに、周囲のテーブルにいる人たちも驚いてその行方を見守っていた。

周囲のその人達に奈々子は微笑みながら軽く頭を下げると、うれしそうに食べ始めた。

たか子と明子は、その大きさにただただ驚くばかりで、

「奈々子ちゃん、食べるのはいいんだけどお腹は大丈夫なの? 」

たか子が心配そうに尋ねると、

「大丈夫です、大丈夫です。この子は何をどれだけ食べても大丈夫です、全て脳に行きますから…… 」

裕子がニコニコしながらたか子に微笑んだ。

「じゃあ奈々子は、もう食べることの心配をしなくてもいいんですか? 」

真紀が思い出したように尋ねると、

「もちろんです、食べるものはすべて私どもで用意しますからいつもお腹いっぱい食べてもらっていますよ 」たか子が笑顔で答えた。

「半端ないでしょ、この娘! 私たちも朝からおにぎりを持っていったり、お昼も別に作っていったり、結構大変だったんです……」

「そうだったの、ありがとうね、奈々子ちゃんはお二人の友情に支えられていたのね…… 」たか子は目を細め暖かく二人を見つめると、感謝の思いを語った。

松島グループ支配人……その1

 そんなある日、たか子と奈々子がリビングで夕食後のデザートを楽しんでいる時、明子がやってきてたか子の隣に腰を下ろした。

「奈々子さん、学校でいじめがあるって噂を聞いたんだけど何か知っている?」

「えっー、うちの学校でいじめがあるの? 聞いたことないけどなぁ」

奈々子は不思議そうに答えた

「そうなの、でも何かわかったら教えてね」

「はい了解です」奈々子はそう言うとニコニコしながら敬礼をした。

「あなたといると楽しいわね」その傍らでたか子は微笑んでいた

「ところで鬼軍曹、 一つお聞きしたいのですがよろしいですか?」

奈々子は背筋をピンと伸ばして微笑みながらそう言うと

「何?その鬼軍曹って……」たか子が笑った。

「あのねえ、お願いだから、せめてその鬼は取ってくれる……」

明子は笑いながら参ったというように話すと

「はっ、軍曹殿わかりました」

「その軍曹に何が聞きたいの?」

「あのですね、明子さんは、どうやってママと知り合ったの? どうして支配人になったの? ずっと知りたかったの……」

「それはね、神様の導きね 」たか子が優しく言うと

「え、何かすごいことがあったの? 」奈々子は目を見開いて興味津々で尋ねる。

「実はね、私は大学を出て、最初は佐久間商事に就職する予定だったの、内定をもらって喜んでいたら大学を卒業する三月になって、急に内定の取り消し通知が来て、慌てて会社へ行ったの、そしたら内定は誤りだったって言うのよ」

「えっー、そんなのあり?」奈々子が驚く。

「そう思うでしょ。だからそんなこと今頃言われても困りますってだいぶ食いついたんだけど、どうにもならなくて、でも最後に、『それじゃ社長夫妻のお嬢さんの家庭教師をしてみませんか』って言われたのよ。『給料は同じで社長夫妻の家に住んで、食事も出してもらって、その代わりに拘束時間が増えてしまいますがどうですか?』って言われて、もう受けるしかないって思ったのよ。

問題がなければそのうちには本社採用にするからって言われたし、仕方なく家庭教師として働くことに決めたんだけど……」

「佐久間ってパパが行ってたあの佐久間なの?」

「そうあの佐久間なのよ」

「なんか汚いことするんだよね」奈々子も顔をしかめていた。

「ほんとにね、でもその時はもうどうしようもなかったのよ。だけどその娘がまぁワガママで好き放題で、やりたい放題、母親は佐久間の後妻なのよね。継母だったからかもしれないけど、その子を叱ることをしないのよ、だからその子はやりたい放題、もう無茶苦茶だったわ」

明子はいくらか昔の腹立たしさを思い出しているようだった。

「すごいね、そんな子がいるんだ!」

「いるわよ、奈々子さんの高校の同級生よ、佐久間信子って言うの、知らない?」

「うーん聞いたことないなぁ」

「だけどね、小学生になったんだし、何とかしてあげないとこのままだったら大変なことになると思って、何かあるたびに一生懸命お話ししたのよ。でもね全然話が聞けないの、とにかく気に入らなかったら何でも投げるの、ちょうど一週間目の夜、算数教えていたら問題が分からなかったのか、突然、ふてくされて横向いて止めてしまったから、お説教始めたら『いやっー』ていって、教科書を放り投げたの、私ももうだめって思って、その手をピシャって叩いたのよ」

「おっ、やるねー」奈々子が歩調を合わす。

「そしたら大声で泣きながら『ママ、ママ』って、走って部屋から出て行って、その後母親の亜美がきて、『子供を叩いてどういうつもりなの、叩いて教えるんだったら誰にでもできるわよ、あなたにはがっかりしたわ、この子に謝りなさい』って、すごい剣幕でねー、私が説明しようとしても聞く耳持たずで、参ったわ」

「それでどうなったの?」奈々子は目を見開いて前のめりになる。

「『謝るの、謝らないの』って言うから、『子供のためになりません、だから謝りません』って言ったら、そのまま首になったのよ、『もうやめてちょうだい』そう言われて突然家を追い出されたの」

「信じられないね、何なのあの人、やっぱり、昔からおかしいのね」

たか子はその様子を見ながら何も言わずただ微笑んでいたが、息をのんで聞いていた奈々子は呆れてしまった。

「参ったなぁって思いながら大きな荷物を二つ持って坂道を登っていたらちょうど後ろから車で会長が通りかかって声をかけてくれたの、『どうなさったのこんな夜に! どこまで行かれるの?』って会長が優しく聞いてくださったのよ、だから、急にクビになって追い出されていくところがなくてどうしようかと考えていますっていったら、ここに連れてきてくださったのよ」

「へえー、それが二人の出会いなんだ、ホントなんか神がかっているね」

奈々子は佐久間の話が済んでほっと一息ついた様子だった。

「この家の客室に泊めてくださって、食事までいただいて、ホテルに泊まっているようだったわ。お風呂頂いた後にちょうどこの部屋で、『一杯飲みませんか』って誘われてビールを飲みながら二人で話したの、それで松島グループの会長だって知って、頭が真っ白になったの、今でも覚えているわ!」

「そりゃ、びっくりするよね」

「それだけでも驚いているのに、会長が、行くところがないのなら私の秘書をしてくれませんかって言ってくれて、もう夢でもみているのかって感じだったの」

「へえー」

「私にとって松島グループって言えば、天空の上のそのまだ上の存在だったから、それもそこのトップの会長秘書だなんて漫画じゃないんだからって思ったけど、現実の話なのよね。でもさすがに大学出たばかりで、世の中のことも知らないし、自分がそんな人間じゃないことぐらいはわかっていたし、お世話になった方に、ご迷惑をおかけするようなことはさすがにできないって思って、断腸の思いでお断りしたの」

「えっー、一度は断ったんだー、ねえママ、ママはどうして初めてあった人に秘書をしてもらおうって思ったの、それが知りたい、どうして? どうしてなの?」

 奈々子は目を輝かせて身体を乗り出した。

「奈々子ちゃん、楽しそうね」たか子が微笑んで見つめると、

「そりゃ、ママ、そこは知りたいよ、ママと明子さんのコンビって、無限大分の一の確立だよ、化学とか物理では絶対に証明できない世界だよ、奈々子、何よりもそこが知りたい」

 滅多には見せない奈々子の好奇心であった。

「奈々子さんらしいわねー、天才少女の頭で考えても答えが出ないから、必死なのね、でもね、コンビじゃないのよ、あくまで会長と支配人ですからね、そこだけはわきまえているのよ」

「明子さんはいつまでたっても堅苦しいのよ、でもやっぱり誰が見てもコンビよ、コンビだから違和感がないのよ」

「会長…」明子はうれしそうだった。

「車の中から見た時に、不思議な違和感があったの、何て言うか、エネルギーっていうか、オーラっていうか、でも、その時に感じたのは、本当にかすかなもので、どちらかというと、違和感みたいなものだったの。でも、入浴した後の彼女はすごかった。エネルギーに満ち溢れていて、オーラなんていうのは、言葉でしか知らないけど、でも、これが人のオーラなのかって感嘆したわ」

「すごいね、ママ、そんなの感じるんだ!」

奈々子は感動したように彼女を見つめた。

「そんな意味じゃないのよ、オーラが見えたわけじゃないし…… ただ、感じたのか、直感しただけなのか、それはわからない。でも、その瞬間、絶対にそばにいてほしいって思ったの」

「すごい、運命だねー」

「父が亡くなってまだ三か月ぐらいの時だったから、信頼できる話し相手が欲しいっていう思いもあったし、グループ内の一部の人から、責任の重さを説かれて、何か始めなければ、っていう思いもあった。そこだけ考えても、明子さんにいてもらう価値はあったの。でもあの時感じたものは、そんなことはどうでもよかった。私の魂が彼女を求めたような感じだったの。でもあの不思議な感触はもう忘れてしまったわ、彼女の日々を見ていることで当たり前になってしまったのね」

「やはり、なんか、神秘的な話だねー、こんな話、奈々子、大好きだよ……」

彼女がにこにこしながら口を挟んだ。

「お受けするだけの力がないってお話ししたら、会長がね『どうせ誰もやる人がいないんだから大丈夫よ、会長秘書なんているだけでいいんだから、それで自分に分かることがあったら適当に意見を言っていればいいのよ、わからなければ黙っていればいいの、そんなものよ、それに行くところも仕事もないんでしょ、だったらそれで我慢したら……』って言って下さって…… 最初から圧倒されてね、すごい人だなぁって思ったわ、そこまで言っていただけると私も欲が出たのね、もともと野心家だから願ってもないチャンスだったのよ」

「なるほどねー、それで十年してすごい人になったのかー、なんか感動物語だね……」

「でもね、彼女はほんとにすごい人だったのよ、彼女が家に来て三日めぐらいだったけど、松島企画の社長が企業買収の話を持ってきたの…… 」

「そこで支配人が活躍したの? 」

「そうなの、何でも思ったことがあったら意見を言えばいいからねって、そう言って彼女は私の隣で話を聞いていたの……」

「ヘえー、それで何があったの?」

松島グループ支配人……その2

 話は当時に遡るが…

 明子が松島の家に来て三日めの午後二時のことであった。

 松島企画の社長が企業買収についての決裁文書を持ってやってきた。

「会長、この半導体の需要はこれまでの流れをみてもわかりますように、今後ますます増大していくことは周知の事実です。私も以前からこの部門への進出を検討していましたがなかなかいい案がまとまらず、部下ともども悩んでいたところだったんです。そこへ、この斎藤部長が、企業買収の提案をしてくれまして、十分な調査をいたしましたところ、これは買い物だと確信いたしました。 一から立ち上げることは難しいですが、既に確立されたものを安価で手に入れることができるわけですから、ここは松島グループが乗り出すべきと考えております 」

 社長は手柄を土産にやって来たような顔をして、ソファにもたれたまま、そばにいる斎藤部長の肩をポンポンと叩きながら自信満々に話した。

「会長、ちょっとよろしいでしょうか」

 その時、恐る恐る明子がたか子に伺いを立てた。

「どうぞ、気になるところがあれば何でも聞いてちょうだい」たか子が答えると

「半導体の需要が今後ますます拡大するという見込みを持たれているようですがその根拠は何なのでしょうか?」明子が社長に向かって尋ねた。

「失礼ですがこちらの方は? 」社長が驚いたように会長を見つめて尋ねると

「私の秘書です。私はよくわかりませんので、今後は彼女が私に代わってすべてを仕切っていくことになると思います」たか子は冷たく言い放った。

「会長、こんな若い女性に全てを任せるのですか、それはちょっと無謀じゃないですか、内にも優秀なスタッフはたくさんいます、もっと彼らを頼って欲しいのですが…… それに彼女はどこから連れてこられたのですか?」

呆れたように社長が尋ねると、

「会長の私が、 一企業の社長のあなたにそんな事を答えなくてはいけませんか? 私のすることがお気に召さなければどうぞご自由になさってください」

たか子は大きな瞳を見開いて睨み付けるように社長を突き刺した。

「いえ、全くそんなつもりはありませんので、失礼しました」

「挨拶が遅れて申し訳ありませんでした、高島と申します。今後ともよろしくお願い致します」

明子は平静を装って挨拶するのが精一杯だった。

「おい、需要調査の資料は持ってきているのか?」

社長が担当課長に尋ねると

「いえそれは……」

「持ってきてないのか、じゃあ仕方ない。会長申し訳ないのですが改めて資料を持って出直しさせていただきます」

これが、明子が対応した初めての仕事であった。大学時代に経済学を学んでいた彼女は、『需要に対して供給過多に陥る日本経済の脆弱性』と言う卒業論文をまとめていた。

仮にそれがなかったとしても、半導体部門において今後供給過多に陥る事は多少経済をかじったことがある者であればたやすく理解できるところであった。

一部の企業においては既に半導体部門から撤退を始めている現状にあって、この時期にこの分野に手を出すということは全くあり得ない話だった。

「会長、すみません生意気なことを言ってしまって…… 」

「とんでもない、とても助かった…… 今まではね、よくわからないし、もうめんどくさいからすぐに印鑑をついていたのよ、だけどね、本社の社長が口うるさく言うのよ、少しお勉強していただきたいって、もうすぐそこの社長が来るけどね」

「失礼します」こう言って部屋に入ってきた初老の男性は松島グループ本社の社長、青野であった。

「社長、紹介します、先日電話でお話しした高島明子さんです」

「はじめまして高島明子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、本社の青野と申します。大変でしょうが頑張ってください、会長のこと、よろしくお願い致します」

彼は紳士的に挨拶した。

「社長は、こんな若い女で大丈夫ですかって言わないのですか?」

「会長、あなたが見つけてきてあなたが決めたんでしょ、若かろうが、男であろうが女であろうが、スタートする前からそんな失礼な話しはしないですよ。お父上はよく言っておられましたよ。お嬢さんの人を見る目だけは大したものだって……」

彼は微笑ながらそう言うと、作ってきた名刺と二つの携帯電話を明子に差し出した。

「携帯は、とりあえず、会社内部と外部で使い分けされてはどうですか。名刺はとりあえず五〇〇枚ありますので、足りなくなったらまた言ってください」

「はいありがとうございます。」

「それから、 一つだけ忠告させていただいてよろしいでしょうか」

「はいお願いします。」

明子は背筋をぴんと伸ばし真剣な表情で青野に向かった。

「高島さん、あなたが一〇〇点の人間だとして、不安そうにおどおどしてしまうと、相手は六〇点の人間だと思ってしまいます。でもあなたが自信を持って、威厳を持って話をすれば、あなたのことを相手は二〇〇点の人間だと思います。人と向き合うというのは、そういうことだと思います。心配しないで持っている知識をすべて吐き出せばいいですよ。そのことで仮に失敗したとしても、会長はそんなことは責めないし、なんとも思いません。むしろそれはあなたの今後の糧になる、私はそう思います。亡くなられた会長も、現会長も、見かけや年齢、育ちや性別で人を判断することは絶対にいたしません。だからあなたも、この位置に立つと決めたからには最低でもそれだけの事は腹に据えてかかっていただきたい」

「はいわかりました。精一杯勤めさせていただきます」明子は大きく目を見開いてしっかりと彼を見つめ答えた。

その様子を見ていたたか子はにこにこしながら、父が最も信頼したこの本社社長の青野に感謝していた。

「ここに入る前、本社から電話がありました。企画の企業買収の話が通らなかったと聞きましたが、会長就任以来、初めてのことですね 」

「いや、別に拒否したわけじゃないんですよ、彼女が需要調査の資料を求めたら、出直しますって慌てて帰って行っただけなのよ」

「そうですか…」彼は嬉しそうに何かをかみしめているようだった。

そして三日後、松島企画の社長が担当部長と課長を連れて、再び会長のもとにやってきた。

差し出された資料を見て明子は驚いた。

確かに半導体の今後の需要が僅かずつではあるが伸びていく事は彼女も理解していた。

しかしその資料には海外への依存率の動向、国内における供給過多の状況がまったく示されておらず、それはまるで子供が作った資料のようであった。

驚いた明子は「それでは少しお時間をいただけますか、改めてこちらからご連絡をさせていただきます」自信を持ってそう答えた。

「いや時間がないんですよ、その資料を見ていただければ一目瞭然でしょう、ご理解いただけるのなら早めに承認をいただきたいのですが……」

「会長の所へ資料を持ってきて、それを検証する時間もなくすぐに承認しろと、おっしゃるのですか?」

「いやでも時間がないんですよ」

「それはおかしいことをおっしゃいますね、先だってからまだ四日しか経っていないんですよ、少なくとも三十億近い買い物をするのですから、会長のところで十分時間がかかる事は想定できたんじゃないですか、それとも会長は黙って承認すると思っていたんですか?」

 明子は想定していたシナリオを立て板に水のごとく語った。

「言ってる事はわかりますが、我々も時間がない中で動いていくのです。もしこのことで、買収ができなくなったらあなたは責任が取れるんですか?」

「そうなれば縁がなかったということですね」

たか子が初めて口を開いた。

「会長!」社長が驚いてたか子に目を向けた。

「検証する時間をいただけないのであれば、この話はなかったことにしてください。私は承認するわけにはいきません」

「わかりました。それでは待ちますができるだけ早くお願いします」

彼らが帰った後で、

「会長、この資料の一番下にある谷さんという担当の方と話をしても構いませんか」明子は早速たか子に尋ねた。

「ええ、大丈夫よ、ただ彼も立場があるでしょうから、内々で話してみますか?」

「はいできればそうさせていただきたいのですが……」

「わかりました、じゃあ来てもらいましょう」

たか子はこの事情を本社青野に説明し、彼から谷に連絡が入った。

不思議に思いながら谷は、会長からの呼び出しにおそるおそるやってきた。

「はじめまして、マーケット調査課の谷と申します」

三〇代前半の気持ちの良さそうな若者であった。

「どうぞお座りになってください。松島ですよろしくお願いしますね」

「会長秘書の高島と申します。お忙しいのにお呼びだてして申し訳ありません。実はこの資料についてお伺いしたいのですが……」

明子がそう言って需要予測の資料を彼の前に差し出すと、それを手に取った彼は目を見開いて明子を見つめた。

「どうしてこれがここにあるのでしょうか?」

「おたくの社長がこれを持ってきて、 BBCデータを買収したいと申し出てきました。半導体の需要はまだまだ拡大傾向にあるからこれはいい買い物だと言う判断をしたようです」

「とんでもないです。そんなことを言ってたら笑われます。これは一昨日半導体の需要予測だけを求められたもので、不思議には思っていましたが…… 確かに需要の伸びはいくらかは見込めますが、もう一年後には完全な供給過多になってしまいます。海外企業のシェアーも増えていますし、国内では既に撤退する企業も出ています。今頃そんな企業買収してどうするんですか!」

それを聞いたたか子と明子は顔を見合わせて微笑んだ。

「わかりました、私もおっしゃる通りだと思います。今後はそれに沿った形で進めさせていただきますが、あなたにご迷惑をおかけすることになってはいけないので、このことは内々にしていただけますか?」

たか子が心配して尋ねると

「はいよろしくお願いします、私も社長を飛び越えて、会長の前でこんな話をしたことが知れると、どうなるかわかりませんのでそこのところはご配慮をお願いします」

「これは私の携帯番号です。今後、何かありましたらこれに連絡いただければと存じます。私の方からご連絡をさせていただく時にも必ずこの携帯電話を使いますのでよろしくお願いします」

明子が名刺の裏に携帯番号をメモして渡した。

不審に思った明子は、たか子に勧められて本社の青野に相談をした。

「どうしてもこの買収は不可解でなりません。何か裏があるように思うのは考えすぎでしょうか?」

「いやあなたがそう思うのなら、そこはとことん調べてみるべきだと思いますよ。そんなことで企業が揺らぐような事は絶対にありませんが、それでも懸命に頑張っている社員の気持ちを削いでしまうことになりますからね、もしそこに何かあるのであれば、明確にしておく必要があると思いますね」

「こういう場合、どうすれば……」と言いかけた彼女を遮って彼が話し始めた。

「会社に関することで経費が必要になる場合、全てこちらでお支払いをさせていただきまので、請求書は、松島グループ本社あてでお願いします。ただこうしたものを外部に発注する場合、会社の信用問題に関わる場合もありますので…… そこはご理解いただけると思うのですが……」

「はいよくわかります。だからこのことについてもどうしたものかと……」

「松島企画には、内々で話ができる総務課課長補佐の神崎という切れ者の男がいます。信用のできる男です。会って話を聞いてみますか?」

「ぜひお願いします」

「わかりました。私の方から事情を話して、高島さんの携帯へ電話を入れさせます。がんばって下さいね」

「はい、ありがとうございます」

青野は、明子がたか子の秘書として、やっていけるとは思っていなかった。

会長秘書は、社会一般的に言われる秘書とは全く異なっている。会長の判断に大きく影響を及ぼすことができなければ、その職責が果たせない。

経済を読み、政治を知り、場合によっては政界に圧力をかけることも必要で、何よりも信頼できるブレインを抱えなければ、多様な事案に対処できない。

しかし、彼は、幼くして母を亡くし、父親を亡くしてまだ三ケ月あまり、莫大な資産を相続しながらも、身内は一人もなく、子どもを産めない身体であることが結婚をも断念させ、日々悲しみに暮れているたか子が不憫でならなかった。

だから、高島明子はたか子の心の支えになって、彼女を癒してくれればそれでいい、それでたか子の心が救われるのであればそれでいい、何がどうあろうと松島グループは存続していく、彼はそう考えていた。

(後どのくらいの時間があるのかはわからないが、伝えられるものから、一つずつ伝えていこう……)彼はそう思っていた。

三〇分後、神崎から電話をもらった彼女は、明朝九時に会うことを約束した。

九時に松嶋邸にやって来た神崎の口から

「あのBBCデータは、社長の母親の実家が立ち上げた会社で、社長の娘さんの名義で一五%の株を所有しています。会社は既に倒産寸前で、時価評価は限りなく0に近いと思われます」

「よく調べられていますね、この話を聞いてから調べられたのですか?」

明子が尋ねると、

「はい、いろんな部署に、心ある社員がいますので、おかしな案件については、ほとんど情報が入ってきます。そうした者達の力を借りて、内密に調査を行います。青野社長からそういった指示を受けていますので、必要になるかどうかは別にして、必ず答えだけは出して待っています」

「何を待っているんですか」たか子が申し訳なさそうに尋ねると、

「会長からお呼びがかかるのを待っています」

彼はたか子の目を見て訴えるように答えた。

「無能な会長で、本当に申し訳ありません。皆さんのご苦労をずっと無駄にしてきたんですね、ほんとにごめんなさい」

「会長、止めて下さい。責めたつもりは、全くありません。私が申し上げたいのは、命令をいただければ、いつでも内密に動くことのできる人間が、いつでも会長のおそばにいますよということを知っておいて欲しいのです」

「ありがとうございます」

「私は、先日から会長の秘書をいたしておりますが、右も左もわかりません。会長のためにどうか、これからもお力をお貸しください」

明子が深々と頭を下げると、

「もちろんです。正直言って、驚いています。あなたのように若い方が…… ただ青野からも、今後は高島さんの指示に従うように言われています。何でもおっしゃって下さい」彼の誠実さが伝わってくる。

「いえ、お恥ずかしい話ですが、今は指示が出せるような人間ではありません。ですから、むしろご指導をいただかなければ、何もできないと思っています。どうかよろしくお願いします」明子は重ねて深く頭を下げた。

誠実に頭を下げる彼女を見て、彼の脳裏には

「みんなで彼女を育ててやってくれ」といった青野の言葉が浮かんできた。

神崎は四二歳、明子は二二歳であった。最初に話を聞いたとき、神崎は(かんべんして欲しい)と思ったが、それでも尊敬する青野に言葉を返すことができず松島邸に足を運んだ。

しかし、たか子の疲れたような悲しい表情に触れて、加えてまだ若い明子が懸命に何かをしようとしている様子を見て、彼はできることはしてあげようと考えるようになっていた。

「神崎さんはこの件をどう処理すべきとお考えですか、よろしければご意見を伺えないでしょうか」心配そうに尋ねる明子に

「それは私が最初に答えるべきお話しではないと思います。この後あなたは会長とよくご相談なさって、ある程度の方針を定めた上で、進め方や手続きなどについて心配があれば私にご相談いただければと思いますが…… 」

 彼は機械的に答えた。

「でも私はあなたの個人的な意見がお伺いしたいです。これまでおそらく私が無能なせいであなた方の努力を何度も無駄にしていると思います。社長については、長い間見てこられたはずです。そうしたことも含めてあなたの今の個人的な見解をお伺いしたいのですが……」

たか子は何としても彼の思いを聞いてみたかった。

「わかりました。私の個人的な見解ということであれば辞表を出して頂きたいと考えます。あの人はあまりにも利己主義に走り過ぎています。したがって彼を取り巻く周りの人たちもその色に染まってしまって、このままでは彼の霞が周囲をますます侵食してしまいます。身内の利益のために、会社を利用しようとした人です。考える余地はないと思います」

「ありがとうございます、ただ最終的な結論は少しだけ考えさせてください」

「わかりました」

松島グループ支配人……その3

「あなたはどうするべきだと思うの?」

 神崎が帰った後、たか子は明子に尋ねた。

「私は来たばかりでいろいろなことがわかりません。あの方が社長になった背景も知りません。ですがどんなことがあったにしても、今回のことは絶対に許されるべきではないと思います。ですから、辞表を書いていただくべきだと思いますが、ただそれに伴って、次の社長がすんなり決まるのかどうか、私にはそのあたりのことさえわかりません。こんな時秘書は何をすれば良いのでしょうか?」

 明子は、はっきりと判断しかねる部分については包み隠すことなくたか子にぶつけた。

「青野さんに思いをぶつけてみたら?」たか子が微笑むと

「そうですね、今の私にはそのツールしかないですよね。ですが、その前に、会長はどう思われているのですか?」

「私はよくわからない…… だから全てあなたに任せるわ」

「そんな…… 会長、でも……」

「大丈夫よ、どっちにしたって一〇〇点の解答にはならないわ、だからあなたに任せる」

「わかりました。では、青野社長の所へ行ってきます!」

「そうね、電話より出向いた方がいいわね、それから、移動の時は、遠慮しないで、運転手さんに言ってね、いちいち私に断る必要はないから……」

「はい、ありがとうございます」

青野は、

「あなたが一連を仕切っていく中で、私の意見を聞くことは避けた方がいい。もし、私が反対意見を述べて、あなたがそのことを納得したとしても、あなたの思いとは違った結論に向っていくわけですから、どこかで違和感が生じてしまいます。その時にはベストな結果を得ることができなくなります。もちろん、今日のことについては賛成ですよ、ただ今後のために余計な一言を言わせていただきました。どこか、頭の片隅にとどめておいて下さい」

「はい、ありがとうございます。助かります」

「それで、進め方なんですが、まず周囲の取り巻きを一人ずつ引き離して、孤立させたところで会長から印籠を渡していただく…… こんな感じですかね」

「まず、外堀を埋めるということですね」

「いや、彼らが堀の役目を果たしているとは思えないので、ちょっとその表現は当てはまらないかと思いますね」

「そうですね、失礼しました、その周囲の人間の処分は、その後で検討すればいいですね」

「そうですね、そこまで気にしていたとは驚きました」

「とんでもないです。まだ、自分でも何をしているのかよくわかりません。早く自分を取り戻したいです」

それを聞いて、彼は微笑んだ。

彼は、衆議院議員の秘書をしていた彼女の父親が、議員の収賄疑惑を全てひっかぶって亡くなったこと、母と二人苦労して生きてきたこと、さらにその母親も彼女が大学三年の時に他界し、苦悩の中で何とか大学を卒業したこと等、彼女については詳細に調べていた。

( おそらく相当な苦労をしてここまで生きてきたのだろう。安易には人を信じない、人の言葉の裏を読もうとする。聞くことを恥じと思わないこと、何よりも自分自身をよく知っている、常に冷静に自分を分析している  )

とても二十二歳の大学を出たばかりの娘とは思えなかった。

彼は、彼女を見ていて、もう少し話してみたくなった。

「あなたが大変な目に遭って会長の所に来られたことは聞いています。松島企画の社長が流暢に人を巻き込むように言葉巧みに話を進めていく中で、それを冷静に分析して、その需要の根拠を求められたのは立派だと思います」

「ありがとうございます」

「ただ、会長を支えていくということは想像もできないようなことにたくさん出合っていきます。うまく行くこともあるでしょうが失敗することもあると思います。極端なことを言えばあなたがすべて失敗したとしても松島グループが揺らぐような事は絶対にありません。松島グループにはそれだけの仕組みができています」

「…」明子は口を真一文字に結び静かに頷いた。

「松島グループの傘下には一七の会社があります。それぞれに社長がいますが、社長は単独では代表権を執行することはできません。だから何かあれば今回のように会長の所へ承認を取りに来ます。松島グループ本社というのはその一七の会社を総括する会長の直属の組織だと考えてください」

「はい……」

「これまでの松島グループ本社の姿勢としてはそれぞれの会社の管理、運営、企画には口を出さないこととしてやってきました。ただ各社の意向を知った上でそれを会長へつなぐという役目を担っております」

(えっ、つなぐだけ?) 驚いた明子は口を挟みたかったが、そんな雰囲気ではなかった。

「真面目に懸命に頑張る人が報われる企業でなければならない、そういった先代の思いに応えて私たち本社の人間は頑張っています。本社といってもご覧の通り私を入れた九人です。日ごろ、彼らは好きなことをして過ごしています。例えば、一番手前のブースにいる彼は、いつもトレードで稼いでいます。現在は自分の資金でトレードしているはずです。でも、会社の資金が苦しくなってくると、会社でログインして、会社資金でトレードをして、あっという間に、会社の資金を調達します」

「すごいですね」明子は、驚いて瞳を見開くと、彼を見つめた。

「二番目のブースにいる彼女は、ハッキングのプロです。いつも、どこかに侵入して遊んでいます。でも、そこから思いもよらない情報が入ってくることがあります。例えば、国会議員、スポーツ選手、芸能人等、㊙の情報をたくさんストックしています。特に国会議員は資金が必要ですから、時々、頭を打った議員が、威圧的に資金の無心に来ることがあります。幹事長にでも電話すれば直ぐに収まるのですが、それは借りをつくることになってしまいます。そんな時、彼女が持っている情報が役に立ちます」

「……」驚いた明子は呆然とした様子で彼らに見入っていた。

「三番目の彼は、政界を知る生き字引です。後は、経済のプロが二人、弁護士もいます。あの彼女は、霊感の強い人です。そして、一番手前の彼女が、心理学の専門家で、彼ら全員を集めた人です」

聞いていた明子は頭がくらくらして、身動きできなくなった。

(こんな人達と何をすればいいの、私なんか必要ないじゃないの! )

「今回の、松島企画の、企業買収の件も、問題があることがわかっていたんじゃないですか」彼女が不安そうに尋ねると

「おっしゃる通りです。しかし、この本社から問題提議はいたしません。ここからの問題提議は、ここの部署、この本社の思惑になってしまいますから…… あくまで、会長からの指示を待ちます」

「そんな……」

「会長の指示がなければ、おかしな案件でも承認されてしまいます。先代の時は、その横で私が問題提議をさせていただいて、会長の指示を待ちました。しかし、現在の会長にはあなたしかいません」

彼は真剣な眼差しで訴えるように彼女を見つめた。

「どうして青野さんが会長秘書を続けないんですか? 私なんかが、いるべきじゃないと思います」彼女は責めるように彼に言い放ったが

「先代がなくなった後、会長からもお願いされたのですが、私はもう六十歳を過ぎています」

「六十歳なんて、まだまだですよ、七十歳過ぎて現役の人だってたくさんいるじゃないですか」明子は必至だった。

「確かに、そのとおりです。この会長秘書というポストは魅力もあります。地位も名誉も、権力も…… さらに正当に財を築くこともできます」

「なら、どうして…… 」彼女は不満そうであった。

「でも、私は永くやりすぎてしまいました。正直にいうと体調もあまりよくないのです。二~三年で誰かにバトンタッチするのなら、新会長には新しい秘書の方がいい、そう思っているんです」

「それでしたら、せめてあなたの所で私にも経験と勉強する時間を与えて下さい、それでもいいじゃないですか!」

「それだと、私の色が続いてしまいます。時代が変わって、そこに生きている人々も変わって、もう私なんかが先頭で旗を振る時代ではないのです」

「そんな…… 」

「でも、私も体調の許す限り、お手伝いはさせていただきますよ、ただし、方針はあなたに定めていただきたい…… 」

一瞬、見えたかのように思った灯りが再び消えてしまい明子は大きくため息をついた。

「それから今後会長を支えていくうえで考えなければならない大きな問題が一つあります。それは後継者の問題です。悲しいことですが彼女は子供が産めない身体です。養子をとるのか、全くの第三者に任せるのか……」

彼は目を伏せて悲しそうに、そして、訴えるように話した。

「そんなこと…… 私にだってわかりません…… 」彼女は今にも泣き出しそうな顔をして俯いてしまった。

「高島さん、これは誰も解決できないと思うんですよ。だけど、今後会長の傍で多くの時間を過ごすことによって見えてくるであろうものに期待するしかないんですよ」

「でも、見えてくるでしょうか?」明子は不安でいっぱいだった。

「正直言って私にはわかりません。でも、この問題については二十年以上の猶予があります。二十年後のあなたが、この問題をどう考えるかですね。だから、今は、課題があるということだけにとどめて、出せない答えを考えるのは止めませんか…… 」

「そうですね、私だって、直ぐに首になるかもしれませんしね…… 」

「若いあなたにこんな酷な話をしたくはなかったのですが、中途半端な思いで職を維持されると、周りの者たちが困るんです。少なくとも先日まで会長は心が揺れていました。ただあなたとお会いしたことで、あなたがそばにいることで、今は彼女が非常に安定しているような感じを受けています」

「……」彼女は言葉にはしなかったが瞳を大きくして、少しうれしそうであった。

「彼女の個人的な話をすれば何千億もの資産がある中で、何もしんどい思いをして会長を続ける必要は無いわけです。ただ、グループの扇の要(かなめ)がなくなると扇子が壊れてしまうということを彼女は知っていますから、いやいやではありますが会長職についているのです。でもあなたも進むことを決めたのであれば、それだけの覚悟をもって進んでいただきたい」

この話を聞いていた明子は

( 確かにその通りだ、中途半端な思いでは務まらない。まして自分なんか何の取り柄もない、どうして会長が私に手を差し伸べてくれたのかもわからない、佐久間の家を追い出されたあの夜、会長に会ってなければ私はどうしていたんだろう…… )

考えてみても想像がつかない、だが会長に拾われた事は運命としか思えなかった。

『人生は必ず大事なところで一石が投じられる、それによって生じる波紋をどう捉えてどう考えていくのかはその人次第。一石から目を背けるのであれば、議論の余地さえない……』

父が生前よく言っていたことを思いだした。

明子の意思は決まっていた、絶対に逃げるわけにはいかない、あの仏様みたいなたか子は、私が絶対に支えていく。

まだ知識も知恵もない彼女だったがその思いだけは確固たるものになっていた。

その後明子は、青野の力を借りて、徐々にではあるが、自らの手足となって動いてくれる人材を集めていった。

本社の八名は、自分の世界さえ守らせてくれるのであれば、その上に立つ者の歳など気に留める者はいなかったが、松島企画の神崎のような立場の人材を求めるのはかなり大変であった。

しかし、三年も経過したころには、明子網はほとんど完成され、彼女も自信をもって動くようになっていた。

それをみた青野は、本社の社長を、社員七人を集めた心理学のスペシャリストである武田芳子に譲り、明子は支配人として今まで通りの組織を維持することを提案して身を引いた。

秘書を支配人としたのは、対外的にその位置の高さを明確にするためで、今後は明子が前面に出てその存在を社会にアピールするためのものでもあった。

青野は明子のこの三年を見て来て、彼女の覚悟を知ることができたし、何よりたか子が明るく元気になったことがうれしかった。

グループ本社の八人はもちろん、彼女が創り上げた明子網も十分に機能していた。

彼はその後二年間の間、相談役として本社に残ってくれたが、明子がたか子のもとに来てから六年目を迎えた春、たか子や明子、そして息子夫婦と三人の孫に見守られながら、静かにこの世を去った。

享年六七歳、たか子の祖父にその才能を見出され、二代の会長に仕える中で、分社化された企業の統一を図るため、松島グループ本社を設立し、ゆるぎないグループの礎を築いた男の最期であった。

この後、生前の青野の配慮により、明子は三〇歳の頃には、グループにおける絶対的な地位を築き上げていた。

この話を聞いた奈々子は

「すごいねー、やっぱり支配人はすごいね、そんな中でスタートして一〇年でここまで来るんだもの……」そう言って明子に見とれていた。

佐久間商事、崩壊への序章

 一方、佐久間商事では、多田秀樹の退職の報告を受けた社長夫人、副社長の佐久間亜美が怒りに唇を震わせていた。

 彼女自身もまた、たか子と同様、博士の優れた才能を買っていた。ただ、彼女は彼の心理を読み、駆け引きを行いながら彼に対峙していた。

 亜美は彼を極限まで追い詰め、身動きが取れなくなったところで、手をさしのべ会社に対してもっと大きな恩を感じるように仕向けたいと考えていたので、尾行を命じるなど、細心の注意を払って彼を見張っていたところであった。

 彼女は、近いうちに彼が泣きついてくるのではないか、そろそろ限界にきているのではないか、彼が泣きついてきた時がチャンス、その時には借金をなかったことにし、一億円を研究費として提供する準備を整えていた。

 そのことで彼の会社に対する恩義は絶大なものになり、今後は会社のためにさらに精進するはずだと考えていただけに、この松島グループのやり方に腸(はらわた)が煮えくり返るような思いであった。

 博士に思う存分研究をさせたいと考えていた点において、彼女はたか子と何ら変わる事は無かったのだが、ただ違っていたのは、亜美の場合その目的が利益のことしか考えていなかったということに加え計算ずくで人を操ろうとしていたことと、心で人に接するたか子の差であった。

 貧しい家庭に生まれた彼女は、人の心理を読み、常に駆け引きを行いながら、人に恨まれることを恐れず、佐久間社長の後妻に収まった人間であった。

 彼女が佐久間商事の社長夫人になってから、会社が大きく成長してきたことは事実であったが、しかし苦労の末ここまでたどりついてきた彼女は、人を騙(だま)したり、落とし入れたりすることにはあえて目をつぶり、ただ利益のためにここまで走ってきた女性である。

 したがって、彼女を恨む者も多く、会社の中では特に畏(おそ)れられる存在となっていた。

もともと小さな商社であった佐久間商事は、亜美の手腕によって小さな製薬会社を買収し子会社化すると、それに味を占めた彼女は、ありとあらゆる手段を駆使して、多様な分野に手を広げていった。

 時には、下請けの受注単価を下げるため、下請け企業に今後大幅な発注をお願いしたいと持ち掛け、設備投資をさせた後に、発注を停止し、泣きついてくる企業にさらに安価での受注を受けさせるなど、こんなことは当たり前、さらには、金融機関から運転資金の借り入れを行おうとする下請けに、

「これまでお世話になったのだから」と、無利子での貸し付けを行い、「契約書上は、会社の決まりだから一年後の返済という形を取りますが、そんなことは気にしなくていいです。何年かかってもいいですよ」と……

 まことしやかに説明し、相手に感謝させ、一年後には契約書に基づいてきっちりと返済を迫り、相手企業を買収するなど、こんなことも平気で実行する女性であったから、周囲の者は(いつか刺されるのではないか)と思っていた。

「何をしていたの、あれほど言っていたでしょっ 」

 亜美は目を釣り上げて顧問弁護士をにらみつけていた。

「すいません、しかし用意周到で弁護士も三人掛かりで取り掛かっていたみたいです。いずれも完璧で、手の打ちようがありませんでした」

 弁護士はなすすべもなく、俯いたまま言い訳を続けた。

「何のために高い顧問料払っているの、全く役立たずねっ!」

 腹立ち紛れに顧問弁護士にあたってはみるものの、もうどうにもならない状況になっていた。

 夏休みも終盤にさしかかったある日、松嶋邸では

「奈々子ちゃん、明日はママたち九州まで行ってくるから、一晩だけ一人になるけど大丈夫よね」夕食の時にたか子がそう言うと

「えっ、奈々子一人になるの、ママはいないの…… 」彼女が俯いて今にも泣き出しそうに表情を曇らせる。

「でもね、明日はお仕事でどうしても九州に行かないといけないの、だから一晩だけ我慢して……」

「いやっ、じゃあ奈々子も一緒に行く!」彼女が顔を振りながら、すがるように言うと

「えっ、どうしましょう…… 」たか子が困惑の表情で明子を見つめた。

「いいじゃないですか、一緒に連れていきませんか、学校の補修授業より良い勉強になるかもしれませんよ 」

明子が奈々子に目で合図しながらそう言うと、奈々子は少し安心して笑顔を取り戻した。

「そうね、ちょうど夏休みだし、じゃあ一緒に行く? 」

 微笑んだたか子を見て奈々子は

「行く、行く」はしゃぎながらとても嬉しそうだった。

 翌日三人は羽田から飛行機で福岡空港へ向かうと、到着したのは昼前であったが迎えにきていた車に乗り込み直ちに松島薬品に向かった。

 ここは松島グループの製薬部門を担っている会社で、奈々子の父親によって紹介された中山製薬と共同で新たながん特効薬の臨床試験に向けた最終調整が行われていて、奈々子の父もよく顔を出している場所であった。

 表向きはその視察ということであったが、コンピューターに異常が発生し、現在はホストコンピューターを停止している状況であるとの報告を受け、取り急ぎ明子とたか子が出向いた次第であった。


「どうも先日から様子がおかしくて、ホストコンピューターを稼働させると、少しずつウィルスが侵入のエリアを広げているみたいで、総力をあげて対応しているのですがなかなか解決策が見つからず参っているところです」

 総務部長の報告に

「会長どうしますか? 」

明子が困り果てたようにたか子に相談を持ちかけた。

「プロが何人もかかってどうにもできないのでは仕方ないわね」

たか子も不本意ではあったが、直ちに解決策が見つからないとすればこの状態を維持することはやむを得ず、とりあえずはプロを集め対応を検討することとした。

しかし奈々子が突然口を開いた。

「ちょっとパソコン一台貸してもらえますか?」

「えっ、こちらのお嬢さんは? 」

対応していた総務部長が不思議そうに尋ねると

「私の娘です 」

平静を装って言ったたか子に総務部長が驚いた。

(げっ、結婚していないだろう)  内心そう思いながらも

「そうなんですか……」と静かに奈々子に目を向けた。

(ひょっとしたら奈々子が何とかできるかもしれない) 

そう思った明子が

「誰かパソコン持ってきて!」

そう言って奈々子の前にパソコンを用意した。

パソコンを開いたら奈々子は、とてつもない速さでキーボードを叩き始めた。

五分ほど叩き続けた後、しばらく一点を見つめながら考えたかと思うと、再び打ち始めたその信じられないような速さに誰もが驚嘆した。

「ホストコンピューター、オンにしてください」顔を上げた奈々子が静かに言うと

「えっ」驚いた総務部長はたか子を見た。

「オンにして!」

明子が担当に言ってスイッチが入った瞬間、離れたところで監視用のパソコンの状況を見守っていた社員が

「あっ、止まりました。ウィルスが止まりました 」驚いたように甲高い声が響いた。

一瞬微笑んだ奈々子は、たか子を見つめてにっこり笑うと再び打ち始めた。

しばらくして顔を上げた彼女が

「このウィルス、どうしますかね?」

「ええっ、どういうことなの、もう大丈夫なの? 」

あっけにとられたたか子が、狐にでもつままれたかのような顔をして奈々子に尋ねた。

「大丈夫!」奈々子は彼女を見つめて再びにっこりと笑った。

その愛くるしい笑顔は、プロが何人かかってもどうしようもなかったこのウィルスをあっという間に止めてしまった、そんな大それたことをするような女の子にはとても見えなかった。

でもたか子は、そのとてつもなく大きなギャップが、そのギャップを生み出す奈々子が愛おしくてならなかった。

「ウオッー」と言う歓声とともに、大きな拍手がわき上がった。

奈々子は照れ臭そうに頭をかきながらとても嬉しそうだった。

「このウィルスね、いまここで止めているんだけど、どうしますか? 」

「どうすればいいの、どんな選択肢があるの? 」不思議そうに明子が尋ねた。

「最初に、破棄する場合、これは一〇〇%破棄できるかどうかはわからない、場合によったらとても少ない確率だけど、またどこかへ飛んでいく可能性がある。だからちょっと怖い気もする」

「他に案はないの? 」明子が少し慌てていた。

「発信元にお返しする方法があるけど、発信元のパソコンは済んでしまうね。ただ、発信者だからその対応は考えているかもしれないね 」

奈々子は静かに説明した。

彼女は、廃棄しても一〇〇パーセント問題がないことは確信していたが、しかしこの事件をそれで終わらすのは問題があると思っていた。

なぜなら、このウィルスは彼女自身が中学生の時に作ったもので、退職してしまった当時の佐久間商事の情報推進部長に上げたものだった。

これがどういう経緯で使われることになったのか定かでは無いが、このウィルスが佐久間商事から発信されたものであることが奈々子には容易に推察できた。

このため本心としては、佐久間商事へ送り返し、その報いを受けさせるべきであると思っていたが、露骨にこれを提案するわけにはいかないので、周囲の者が送り返すことを提案しやすいように二つの選択肢を話したのである。

「それは送り返すしかないでしょ」総務部長がそう言うと

「そうするべきですよ」と次々に送り返すことを勧める者たちが出てきた。

「皆さん、聞いてください 」明子が静かに話し始めた。

皆が静まり、彼女に向いたのを確認すると、

「このウィルスを送り返すことで、この娘に何か責任が生じるようなことになっては困ります。したがってここで皆さんの認識を明確にしておきたいと思います」

皆は真剣に明子に聞き入っていた。

「この子はウィルスを現在止めています。その処理方法として一つには破棄する方法があって、ただし、この場合は一〇〇%では無い、場合によっては、たとえ小さな確率であっても本社、あるいは他社へ迷惑をかける可能性が残っているということ、 二番目には、送信元へ送り返せば一〇〇%本社や他社へ迷惑をかける事は絶対に無い、と言う結論です」

明子がここまでまとめると、社員はみな頷きながら彼女を見つめていた。

「ここで我々の総意としては、本社あるいは他社へ迷惑をかける可能性が僅かでも残っている以上、送信元へ送り返すことを選択せざるを得ない…… そういう認識でよろしいですよね 」

明子は冷静に皆を見回しながら、この結論が会社の総意であることを皆で確認しようとした。

誰もがそのことを了解し、この愛くるしい娘に責任が生じるようなことがあっては絶対にならない、そう考えていた。

「会長、会社としてこういう結論でよろしいですよね 」

「会社として送り返すこと選択しましょう」たか子は大きな瞳を見開き、みんなに向かってはっきりと明言した。

「奈々子ちゃん、発信元に送り返してくれる! 」

彼女が続けて奈々子に話すと

「了解でーす」奈々子は嬉しそうに、すでにその準備をしていたのであろう、実行ボタンをクリックした。

このウィルスは発信元が解らないように、海外を経由して送られてきたのだろうが、発信元へ帰る場合、自らが通った道筋をたどることができるので、そんなことは無意味だった。

彼女は、ウィルスを止めるとともに、それによって破壊された部分が自動で修復を始めるようにプログラムを施していたため、それらが驚くような勢いで修復を開始した。

観察用のパソコンをモニタリングしていた社員が

「すごいです、すごい勢いで修復が始まってます、どうしてこんなことになったんですか、とにかく凄いです」

それを聞いた奈々子はにこにこしながらたか子に向かってvサインを送った。

結局この日は、明日に備えて博多での宿泊をキャンセルし、夕方の飛行機で東京へ折り返した。

飛行機の中で、奈々子は申し訳なさそうに口を開いた。

「あのねママ! あのウィルス、中学生の時に私が作ったの…… 」

「えっ、それじゃあ、あれは佐久間のものなの? 」驚いたたか子が尋ねると

「当時の部長さんに頼まれて内緒で作ったんだけど、その人はもう今は退職して佐久間にはいないの」奈々子は申し訳なさそうに説明を続けた。

「その人が個人でこんなことをするなんて事は考えられないわね」

明子が横から口をはさんできた。

「私もそう思うの、だからそれを受け継いだ誰かが、佐久間から発信したとしか考えられない 」奈々子は冷静に分析していた。

「いずれにしても、ウィルスを送り返された発信者は、大変なことになるわね、明日にははっきりするでしょう」明子が付け加えると

「もう既に大変なことになっていると思うよ」奈々子は彼女に似合わない真剣な表情を浮かべ、ふっと遠くを見つめた。

「でも今日の一件は、本当に奈々子さんのおかげで助かったわ、皆もあんなに喜んでいたものね、ほんとにたいしたものだわ」

明子がそう言うと

「テヘェ、ママ誉められちゃった」奈々子が右に座っているたか子の左腕にすがり、照れくさそうに彼女を見つめて笑った。

その頃、佐久間商事では大騒ぎになっていた。

なすすべもなく全てのコンピューターが、自ら発信したウィルスによって破壊され、すべてのデータが消去されてしまった。

「どうして何もできないの、あなたが発信したんでしょう、どうしてこんなことになるの、何か失敗したんでしょう」社長夫人の佐久間亜美はヒステリックに怒鳴り散らしていた。

現在の情報部長は、将来自分の立場を守るために使うようにと言われ、前部長からこのウィルスに関するデータを引き継いでいたのだが、二日ほど前、亜美から「松島薬品を何とかしなさい」と命じられ、止む無くこのウィルスを発信したのだった。

彼はこのプログラムについては時間をかけて何度も検証してみたが、結局理解することができずに諦めてしまっていた。

したがって当然のごとくこのウィルスの威力もそれによる報いも全く理解できていなかったのが現状である。

翌日この事がマスメディアで大きく取り上げられ、テロの疑いなども取りざたされ、警視庁サイバー攻撃対策班が動き始めた。

しかし、当の佐久間商事は、あくまで当社の事故によるものと発表し、警視庁の介入を認めなかった。

そのため情報部長が事情聴取のため、警視庁に出頭を命じられたのであるが、彼はあっさりと事実を話してしまった。

そのことにより攻撃を支持した副社長の佐久間亜美も警視庁サイバー対策班から出頭を命じられた。

警視庁から問い合わせのあった松島グループ支配人の高島明子は、攻撃した犯人が佐久間商事と言う事を聞いて驚いては見せたが、特に被害を訴える意思がないことを申し出た。

サイバー対策班においても、このウィルスの検査が行われたが、誰一人としてそのプログラムを理解できるものはなく、全容解明には半年近くかかるのではないかと言われていた。

こうした背景の中で、松島グループが訴える意思を持っていないこと、加えて、被害を受けたのがウィルスを発信した当事者であったことなどから、このことが事件として扱われる事はなかったが、ただ、佐久間商事は厳重な注意を受け、今後の有力な監視対象となってしまった。

この事件により、佐久間商事の株が大暴落をする一方で、ガンの特効薬サクマの買い取り価格が高騰を始めた。

そこに目をつけた副社長は、意識的にガン特効薬サクマの出荷を大幅に抑えた。

すべてがシステムダウンし、データも消却し、完全に信用を失ってしまった佐久間商事は、このガンの特効薬サクマを切り札に収益の回復を図ろうと考えていた。

もはや会社の資金は底をつき、このガンの特効薬に頼るしか道は残されていなかった。

しばらくの間はこの高騰により会社の収益も順調に回復し、軌道に乗り始めたところではあったが、消費者の不満が募り、厚生労働省までが立ち入り調査を行うなど深刻な事態となっていた。 

真紀の悲劇

 一方、学校は二学期が始まり、奈々子の学校生活は一変していた。

 車での送迎に加え、お昼も量、質ともに彼女が満足するお弁当が用意され、きれいなセーラー服にピカピカの革靴を履いて奈々子は楽しそうに通学を始めた。

 二週間後、夏休みの宿題テストの結果が校内に貼り出されると、トップは毎回のことながら真紀であった。

「真紀ちゃんはやっぱりすごいね、 五教科四七八点だもんね」奈々子は感心したように微笑んだ。

「何言ってんの、あなたが本気でやらないからでしょ 」本気を出した奈々子には絶対勝てないことを知っている彼女は、一番をとりながらもいつも不本意であった。

「でも真紀ちゃん本当にすごい、 四七八点はすごいよ、私なんか三六〇点よ」

裕子は大きなため息をついた。

 そんな三人が、帰ろうとしたとき、真紀は用事があるからといって別行動をとった。

 彼女のこの珍しい行動を奈々子は不思議に思ったが、それでも気に留めることなく学校を後にした。

 その翌日のお昼、真紀は二人の所には来なかった。

 食事を終えた奈々子は、 三階のベランダからふっと裏庭を見ていると第二体育館から理事長の娘、佐久間信子とその取り巻きの二人が、そしてその後ろを、教師の藤原恭子と真紀が歩いてくるのが見えた。

(おかしい、どうしたんだろう、何かあったんだろうか……)

 奈々子の脳裏を不安な思いがよぎった。

 彼女はすぐに裕子に相談したが、裕子は何かを知っているのか返事をはぐらかし、はっきりと答えなかった。

 彼女が何か隠そうとしていることがはっきりとわかった奈々子は、

「ねえ裕子、知っているのならちゃんと教えて、私はあなたたち二人に助けてもらってばかりで、本当に感謝している。だから、もし真紀が何かで困っているのなら、私は知らないふりはできない。だからお願い、話して!」

必死に思いを伝えた。

 裕子は、こんな彼女を見たことがなかった。

「あのね、私も夏休みになってからわかったのよ。理事長の娘の佐久間信子って知っているでしょ」

裕子は静かに話し始めた。奈々子が頷(うなず)くと彼女が続けた。

「真紀は成績がいつも一番でしょ、あの信子はそのことが腹立たしいのよ。だから成績が発表されるたびに、真紀は呼びだされてカンニングしているでしょって、言いがかりつけられてイジメられているらしいの」

「えっー、何なの、それ!」

奈々子は驚いて、目を見開いたまま裕子を見つめた。

「私は冗談で彼女のスカートをめくった時に、太ももにあざができているのを見つけて、彼女を問い詰めたの。そしたら、泣きながら話してくれたんだけど奈々子には絶対言わないでって頼まれたの」

「どうしてよ、どうして私には内緒なのよ 」

奈々子にしては珍しく突っかかる様に尋ねた。

「だってあなたが知ったら何をするか分からないでしょう。せっかく松島の家で幸せに暮らし始めたのに、真紀はあんたのことが心配だったのよ 」

裕子は辛そうに説明をした。

「そんなー、私だって無茶はしないわよ」

奈々子は真紀の思いが嬉しかったが、それと同時に何とかしなければという思いが彼女を動かした。

その日の放課後、奈々子は真紀と裕子を松島の家へ誘った。

あらかじめ電話で連絡を受けていた明子とたか子が家で待っていた。

しばらくすると、明子から連絡を受けた真紀の母親もやってきた。

奈々子に裕子、加えてたか子と明子に知られてしまった真紀は観念したように、静かに話し始めた。

真紀が最初に呼び出されたのは、 二年生になって一学期の中間テストの後だった。

校長からの伝言があるからと言われ、真紀は第二体育館へ出向いた。

この第二体育館は特別な行事のために三年前に建設されたもので、一般の生徒が出入りすることは許されていなかったが、それでも信子は理事長の娘であることを理由にここの鍵を持っていたので、何かの時には誰に断ることもなく勝手にここを使用していた。

「あなたねぇ、サクマーズって知っている?」

竹刀を持って仁王立ちの信子が睨みつけるように言うと、

「何、それ…… 」

真紀は、それが信子とその取り巻きのグループである事は知っていたが、あえて馬鹿にしたように、知らないふりをした。

「私たちのグループよ、そんなことも知らないの!」信子は少し苛ついていた。

「そんなこと知っているわけないでしょっ!」真紀が吐き捨てるように言うと

「馬鹿にしているのっ!」信子は低い声で睨み付けた。

「馬鹿にしているも何も、知らないから知らないって言っているだけよ」

「まあいいわ、あなたサクマーズに入らない? そうすれば虐められる事もないわよ。カンニングしたことも見逃してあげる」

優しく諭すような言い方だった。

「なんですって、私がカンニングしたですって! 変な言いがかりはよして、それにサクマーズなんて入るつもりもないわ!」

真紀は驚いたが、しっかりとした口調ではっきりと言い返した。

「そう、やさしく言ってあげれば調子にのって、あなた何様のつもりよ。サクマーズにはねっ、私を入れて十三人いるのよっ、私が声をかければ、いつでも十三人が集まるのよ。三年生だって三人いるのよ、私はその頂点にいるのよ、わたしのすごさがわかる?」

勝ち誇った表情で信子は凄んでみせた。

「……」真紀も十三人と聞いて少し驚いたが、それを見てとった信子は調子にのって

「サクマーズに入りなさい、これは命令よ」冷たく言い放ったが

【命令】と言う言葉に、カチンときた真紀は

「よしてよ、どうしてあなたに命令されなきゃいけないの、頭おかしいんじゃないの!」語気を強めて再び応戦した。

「何、その反抗的な態度は! 私の言うことが聞けないのね…… 痛い思いをしないとわからないの?」

信子が蔑んだように静かに低い声で真紀を睨み付けた。

「何をするつもり! 暴力なんて振るわれたら、黙っていないわよ!」

不安になった真紀は懸命に言い返したが

「座らせて」信子は強い口調で仲間の二人に命令した。

「ちゃんと座りなさい」真紀は二人に両サイドから腕を取られ、押さえつけられるように床の上に崩れた正座を強いられた。

「痛い、何をするの、やめて! 」懸命に抵抗するが身動きすることができない真紀に向かって、

「あなたがカンニングした事はわかっているのよ、証拠だってちゃんとあるわ。私が校長に言えば退学させることだってできるのよ。わかっているのっ !」

信子が脅しをかけるように詰め寄ってきた。

「どこに証拠があるのよ、見せてちょうだい、そんなものがあるはずがない、私は絶対にしてないわ!」

押さえつけられたままではあったが、真紀は信子を見上げながらも目はそらさずには懸命に言い返した。

「バカね、あんたは…… 私が証拠なのよ、 私が言えばそれが証拠になるのよ。そんなこともわからないの! 」

まさに、私は偉いのよ、と言わんばかりであった。

「そんな馬鹿なことが通るわけないでしょっ! ありえないわ、早く放して!」真紀の口調が強くなってきた。

「ふてぶてしい女ね、もう一度だけ聞いてあげるわ…… サクマーズに入るつもりはないの?」信子は懸命に冷静を装っていた。

「いやよ、絶対に入らないわ!」

「もういいわ、それじゃカンニングしたことを認めなさい」

苛々(いらいら)し始めた信子が投げ捨てるように命じるが

「馬鹿なこと言わないで、絶対にしていないわ」真紀も引かない。

「そう、あくまで白を切るのね…… こんな悪い子には罰が必要ね」

そう言って信子が竹刀を振り上げた時、仲間の洋子が、

「信子さん、ちょっと待って、さすがにそれはまずいわっ!」

慌てて制止しようとしたが

「何言ってるの、大丈夫よ、任せときなさい 」

「でもそれだったら、今までみたいに見えない所を叩いたら……」

もう一人の仲間、節子が言った。

「そうね…… 」

信子が薄ら笑いを浮かべ洋子に目を向けると、彼女は嫌だったが、何ともし難く小さく目で頷いた。

洋子と節子に、会議用の長机の上に上半身を押さえつけられた真紀はお尻や太ももを竹刀で二〇回以上たたかれたが、泣き叫びながらもカンニングの件については決して言いなりにはならなかった。

「強情な娘ね、今日はこれぐらいで許してあげるけど、あなたなんていつでも退学処分にできるのよ、よく覚えておきなさい!」

彼女は、継母の亜美からいつも言われていたことがある。

「将来、あなたを支えてくれる仲間を見つけなさい。その中には色々な人がいてもいい、でも一番大事なのはあなたの右腕になって、あなたを支えてくれる人、これが絶対に必要よ。あなたに代わって全てを取り仕切ってくれる人、そんな人を今から見つけて大事にしなさい。人の心理を読んで、駆け引きをして、策を労して、その人を自分に心酔させるのよ。困っていない人を助けても何の意味もない、だけどほんとに困っている人を助ければ、感謝されるわ…… 」

苦労してここまでたどりついた亜美は、自らをここまで導いてきたその生き方を彼女に説いた。

「ママはそうやって生きてきたの?」

「そうよ、だけどママがいつも忙しいのは、右腕になってくれる人がいないから…… だから、あなたは右腕になってくれる人を見つけて、もっと楽に暮らしていきなさい」

彼女が六歳の時に父の後妻になったこの継母は、夫の信頼を得るために、細心の注意を払って彼女に接してきた。

まだ幼かった彼女は、この継母になつき、この継母はいつしか夫をも支配する存在になっていった。

そんな継母に育てられた信子は、自分の取り巻きが無能な者しかいないことに苛ついていた。

だから、頭がよくて気の強い真紀を何とか自分のものにしたかったのだが、そのために彼女が企てたこのカンニング事件はあまりにも愚かであった。

話は第二体育館にもどるが、

解放された真紀は、その足で急いで職員室へ向かい、担任の藤原恭子にこの出来事を報告した。

一部始終を聞いた藤原恭子は、彼女をつれて直ちに校長室に向かったが、二人から話を聞いた校長は、あまり多くを語らず

「そうなの、よくわかりました。私から注意をしておきます 」とだけ静かに返した。

「校長先生、注意するだけですか。暴力を振ったんですよ! 」

藤原恭子が食い下がるが、

「私がちゃんと調べてみます!」校長は苦しそうに言い訳をする。

「調べるも何もないじゃないですか、現実にこうして真紀さんが被害を受けているんですから!」さらに彼女が突っ込むと

「私のやり方に不満があるのですか!」

これ以上責められたくない校長が険しい表情で目を吊り上げ藤原恭子を睨み付けた。

「わかりました、でも、この真紀さんのことを一番に考えてあげてくださいよ 」

「そんな事はあなたに言われなくてもわかっています!」校長は言葉を吐き捨てるように言うと、二人から目を逸らした。

二人には、校長が理事長に気を使っていることが嫌というほど伝わってきた。

「校長が動かなければ私が動くから…… 何かあったら私に教えてね」

そう言ってくれる藤原恭子を見て、真紀は、校長は駄目だがこの人は信頼できると思い安堵していた。

しかしその二日後、佐久間信子の仲間、洋子が真紀のところへやってきた。

「今日の放課後、第二体育館に来てね 」

彼女は真紀の耳元で囁いた。

「いやよ、どうして行かなくちゃいけないの、私は何も悪いことはしていないわ! 」

「あんたねぇ、賢くなりなさいよ。本当に退学させられるわよ…… 校長なんて彼女の言いなりなんだから。前の校長だって、彼女のママに逆らったからやめさせられたのよ。平気でそんな事するんだから…… 」

洋子も嫌々信子の側にいるようだった。

「そんなことが許されるの! あなただってそうよ、なぜ彼女のところにいるのよっ!」真紀が投げ捨てるように言うと、

「仕方ないのよ、父親がクビになったら食べていけないじゃないの、私だって嫌よ…… 今日だってあなたが来なかったら、私が竹刀で叩かれることになるわ……」彼女も辛そうであった。

真紀は色々考えては見たが、自分が行かなければ洋子が叩かれるかもしれないという思いだけが大きくのしかかってきて、結論が出ないまま、放課後第二体育館へ出向いた。

「あんたねぇ、校長に言いつけたらしいじゃないの! 校長が私のところに来て、なんて言ったか知っている? 」

「… 」真紀は彼女を見つめたまま無言だった。

「頼むからやめてくれって…… 私にお願いに来たのよ。でも彼女は賢いわ、校長を辞めたくないから私の言いなりよ。あんたも馬鹿な娘ね、私の言うことを聴けばいい思いができるのに…… まだ、サクマーズに入る気にならないの?」

「絶対に入らないわ、こんなことして、わたしが入ると思っているの!」

「その内に、入れて下さいって、言わせてあげるわよ」

信子は自信満々であったが

「私は、そんな馬鹿じゃないわっ!」

藤原恭子の存在が真紀を強気にさせていた。

「でも、カンニングしたじゃないの、馬鹿だからカンニングしたんでしょ、まだ認めないの? 」

「認めるも何も、私はやっていないわ。やってもいないことをどうして認めなきゃいけないの!」真紀は冷静に反論した。

「あなたは相当な悪ね、カンニングをして、それを認めないから罰を受けて、それを逆恨みして校長に言いつけて、それでもまだ認めない。まったく反省の色がないわね…… 」

信子は冷たく真紀を睨み付けながら、呆れた様に言った。

「どうしてそんな無茶な話になるの!」真紀は冷静さを保とうとするが、あまりにも理不尽な言葉に心を乱された。

「押さえつけてちょうだい」信子は、竹刀をビュッと一振りすると冷たく命令した。

「したいようにすればいいわ、でもいつか後悔することになるわよ」

真紀は半ばあきらめていたが最後まで屈服するつもりはなかった。

「信子さん、もうやめた方がいいわ。昨日、藤原先生が私のところへ話を聞きに来たの、なんとかごまかしたけど…… 」洋子が心配そうに話したのだが、

「大丈夫よ、あの藤原もママに逆らってばかりだから、そのうちに止めさせられるわ」信子は鼻で笑った。

「でも、こんな事はもうやめた方がいいわ…… 」

洋子が恐る恐る信子を止めようとしたが

「どうしたの、あんたこの子の味方なの? 」信子は冷たく洋子を睨み付けた。

「そういうわけじゃないけど…… 」

「いいわよ、あなたが身代わりになるのなら、それでもいいわよ 」

「いや、それは…… 」

「じゃあ、さっさとおさえなさい!」厳しい口調に二人は慌てて真紀を机の上におさえつけた。

「今日は一〇回で許してあげるわ……」

「あなたは人間のクズよ、絶対に許さないから! 」

真紀は涙を流しながら、それでも歯をくいしばり最後まで耐えた。

「今回はこれで許してあげるけど、次のテストでは絶対にカンニングをしないように、いいわね!」

信子はあざ笑うように言うと竹刀を肩に担いで出ていった。

真紀は涙をぬぐうと、

「あなたたちも同罪だからね…… 絶対に許さないから!」彼女は目を真っ赤にして二人を睨み付けながら体育館を後にした。

彼女は翌日、このことを担任の藤原恭子に報告した。

「ごめんなさいね、校長に話したからしばらくは何もしないって思っていたんだけど甘かったわね、本当にごめんなさい」

「いいえ、先生のせいではないです。迷った挙句に行ってしまった私がバカでした。でも、行かざるを得ない感じになってしまって…… 」

「今ね、報告書を作っているの…… 教育委員会か、場合によっては警察へ届け出ることも考えた方がいいと思うの。校長は全く頼りにならない、だったらできることをやるしかないわ。もし次に呼び出されたら、絶対に私に知らせて!カメラか何かに収めて証拠を作るわ、証拠ができればこちらのものよ、出るところへ出ましょう 」

藤原恭子は真剣に語った。

「でも先生、今回のことはこれで終わりにするって言っていたから、当分は何も言ってこないと思います。問題は次の期末テストだと思います。それまでに私も何か考えてみます 」

「そうなの…… じゃ私も資料をしっかりまとめて、いつでも動けるようにしておくわ、でも何かあったら必ず私のところに来てね 」

その後は特に何もなく、奈々子と裕子の三人で過ごす楽しい時間が過ぎていった。

時折、耳に入ってくる噂によると、いつも信子のそばにいる節子は、信子の唯一の崇拝者で、エキゾチックな彼女の風貌にあこがれ、加えて彼女といればお金の心配をする必要のないことが、節子を引き付けているらしい。

そのため、信子も節子をかわいがっていたので、無理難題は全て洋子に押し付けられていた。

真紀は、その噂を聞いて、洋子の立ち位置がわかるような気がしていた。

やがて期末テストを終え、夏休み前にその成績が公表されると、再び呼び出しがあった。

呼び出しにやって来た洋子に、

「行くわよ、代わりにあなたが叩かれたら、わたしだってつらいわよ」

ごく自然に真紀が答えると、洋子はうっすらと涙ぐんでいるように見えた。

しかしながらこの日は、校長の命令によって藤原恭子は研修に出かけていた。

意図的とも思える校長の命令であったが彼女は職務命令には従わざるを得なかった。

成績の公表が気になっていた彼女は、真紀に「呼び出しがあったら理由をつけてなんとか日を延ばしてもらうように話をしなさい、絶対に一人で行ったらだめよ」

そう言い残して研修に出かけたのであったが、当の真紀は(自分の携帯で録音してやろう……)と思い胸ポケットに携帯を忍ばせて第二体育館へ出かけていった。

「あれほど言っていたのにまたカンニングしたのね。懲りない娘ね、退学しかないわね 」信子は面白がっていた。

「はっきり言っておくけど、カンニングはしていないわ、あなたの言いがかりよ!」

真紀ははっきり録音できるように、ゆっくりと静かに一言、一言、明確に話した。

その時であった。信子に母親から電話が入った。

携帯電話を取り出して信子はふとその録音機能に目がいった。

電話を切った彼女は真紀に近寄ると、彼女のポケットの上からおさえながら携帯電話を探りあて、それを取り出すと、この状況が録音されていることに気がついた。

「舐めた事してくれるわね、何これ、今日は許さないわよ! 覚悟しなさい!」

我を失った信子にお尻や太ももを滅多打ちにされ、泣き叫びながら

「もう止めるわ、学校は退学するわ、そのかわり、絶対に訴えてやる!」

懸命に言葉にした真紀であったが、その言葉に幾分冷静さを取り戻した信子は

「そうなの…… でも、退学しても次にいける学校はないわよ、次の学校へ持っていく成績証明書に、何て書かれるか、想像してごらんなさい。それに訴えると言ったって、どこに証拠があるの、バカじゃないの」

信子はせせら笑いながら再び竹刀を振り下ろした。

真紀は悔しさのあまりこぼれ落ちる涙をどうすることもできなかった。

「いいわ、もう一度だけチャンスをあげるわ…… 夏休みが終わるまでにサクマーズに入るか、カンニングを認めるか、よぉーく考えておきなさい 」

心配した洋子に支えられるようにして体育館を出た真紀は、しばらく休んだ後に、やっとの思いで家にたどり着いた。

真紀は夏休みの間に何度か遊びに誘われたり、呼び出されたりしたがそれには全く応じなかった。

八月のお盆明け、ふとしたことから母親に太もものあざを見られてしまった真紀は、仕方なくすべてを母親に打ち明けた。

校長に話してもどうもならないことを聞いた母親は、悩んだ末に、理事長である信子の母親、佐久間亜美の所へ出向いた。

事情を聴いた理事長は、やさしく微笑みながら、調べてみるので二~三日待ってほしいと真紀の母親に伝えた。

その穏やかな表情に接した母親は、

(さすがに、この人はりっぱな教育者だ、校長とは違う。きっと調べて娘を叱ってくれる、思い切って来て良かった……)

そう思いながら佐久間邸を後にしたのだが、二日後、電話を受けた彼女が再び理事長宅へ出向くと、

「校長に話を聞いたけど、 そんな事実は全くないわよ、言いがかりもいいところね。私の娘を陥れて何の得があるの、何が狙いなの! 」

 蔑んだような目つきで、吐き捨てるように言う理事長に

「そんな…… 言いがかりだなんて、娘のお尻や太ももには可哀想なぐらいあざができています。それが証拠です。言いがかりだなんてとんでもないです 」

真紀の母親は懸命に訴えた。

「さすがにこの親にしてこの子ありね。あなたの娘はカンニングばかりしているらしいじゃないの、それを注意したうちの娘を逆恨みして…… なんてことなの、私を馬鹿にしているの!」語気が強くなってきた。

「… 」母親は頭の中が真っ白になって言葉を失ってしまった。

「そこまでおっしゃるのなら、これを差し上げるから学校を変わればいいじゃない」

彼女は冷たくそう言うと、成績証明書を差し出した。

その備考欄には、カンニングばかりしている事、注意すれば逆恨みをするような性格であること、すぐに手が出る事等、ひどいことが記録されていた。

それを読んだ母親は涙を流しながら

「よくもこんなひどいことができますね、あなたは教育者でしょ、恥ずかしくないんですか! 」理事長を見据えて反論したが、

「なんて母親なの、自分の娘がしたことを棚に上げて言いたい放題ね」

理事長が薄ら笑いを浮かべる。

「こんなもの見せたら、転入できる学校なんて絶対にないわ」

「そう、お気の毒ね、それじゃ、うちで頑張るしかないわね、でも校長が言っていたけど退学処分になるかもしれないわよ、カンニングばかりしているから……」 

理事長は蔑んだように続けた。

「…… 」

「でもうちでがんばりたいのなら、校長に口添えしてあげてもいいけど、どうする? 」

しばらく、沈黙が続いた。

真紀の母親は、涙を流しながら、唇をかみしめ、やや俯き気味に一点を見つめ、やがて、

「お願い……します 」屈辱的な言葉であったが、でも娘のために彼女は涙ぐみながらそれに耐えた。

「お願いの前に言うことがあるんじゃないの!」

「えっ……」

「ちゃんと今までの無礼を謝りなさいよ」

理事長は冷たい目で睨みつけた。

「無礼だなんて……」

「じゃあいいわ、その証明書を持ってお帰りになって、退学願はまたもって行かせるわ」

「そんな…… 」

「じゃあ無礼を謝りなさいよ…… どうするのよっ!」

 理事長の語気が強くなった。

「どうもすいませんでした 」

 仕方なく、真紀の母親は理事長に目を向けると、静かに俯いて消え入るような声でお詫びの言葉を口にしたが

「それだけ? 私が悪うございました、でしょ」

蔑んだように理事長が追い打ちをかけて来ると、再び、涙が滝のように流れ始めた。

「どうも…すいませんでした。私が……悪うございました」

こんな屈辱は生まれて初めてであったが、それでもまだ終わりではなかった。

「そうなの、謝るのなら仕方ないわね、じゃあ、この部屋を綺麗に掃除して下さるかしら」

 薄ら笑いをうかべる理事長は悪魔のようであった。

「えっ、そんな……」

「あなたねぇ、娘が通う学校の理事長の家まで押し掛けてきて、暴言を吐いて言いたい放題…… 」

「…… 」

「おわびする気持ちがあるのなら、そのくらいはしても罰は当たらないんじゃないの」理事長が激しく言い放つ。

二時間かけて泣きながら部屋を掃除した真紀の母親が帰ろうとしたとき、

「また来週の土曜日もお願いね」

理事長はいとも簡単に口にしたのだった。

その翌週の土曜日、真紀の母親は理事長の家で五時間家政婦のような仕事を強要され、悔し涙の中で一日を過ごした。

そして夏休み明け、宿題テストの成績が公表されたその日、真紀の所へ来た洋子は、今日は信子の都合が悪いから、明日の昼休みに体育館へ来るようにと言った。

彼女は担任の藤原恭子に連絡を取ると、翌日の昼休み、第二体育館へ出かけていった。

「最後のチャンスを上げたのに、またカンニングしたのね、懲りない娘ね、もう今日が最後よ、サクマーズに入る気はないの? 」

「絶対に入らない、人をいじめて楽しんでいるようなグループに誰が入るもんですか! 」

担任の藤原がどこかで録音していることを知っている真紀は、強気に発言した。

「じゃカンニングも認めるつもりはないのね」信子は呆れたように言うと、

「やってもいないカンニングを認めるなんて絶対にないわ!」

「じゃ退学ね……、それとも今日も罰を受けて頑張るつもり? 」

「どちらも嫌よ、警察に訴えることにしたわ! 」

「そうなの、じゃあ、そのご褒美に今日はたっぷり罰してあげるわね……」

信子はそう言うと、洋子と節子に目で合図した。

二人に机の上に押さえつけられ、信子が竹刀を振り上げた時、担任の藤原恭子が入ってきた。

「何事なの! 今の話は聞かせてもらったわよ。あなたがやってきたことはすべて知っているわ。校長もクズだけど、あなたも救いようがないわね !」

藤原恭子の言葉に、洋子と節子の二人は驚いて後ずさりしたが、信子は笑いながら

「あなたの言葉なんて誰が信じるの、近いうちに首を切られるはずよ。何とでも言えばいいわ」

「大人を侮(あなど)らないでね、あなたが考えているほど甘くないわよ。この話は全て録音させてもらっているわ、今までの報告書もちゃんとできている。明日にはこの録音と資料を持ってとりあえず弁護士に相談する予定よ」

彼女の鋭い切り口に、信子もやや不安になった。

「真紀さん、帰りましょう。明日は弁護士の所へ行くわよ」

「はい、先生ありがとうございます 」

一連の話を聞き終えた時、奈々子は涙ぐんでいた。

「真紀、ごめんね。大変な時に心配ばかりかけて…… 本当にごめん、気付いてあげられなくてごめん…… 」

「辛かったわね、でもね、人間というのはおかした罪の報いは必ず受けることになるのよ。 二~三日のうちに佐久間商事は倒産することになるわ、学校も経営者が変わるわ」明子が静かに話すと

「……」真紀親子は涙にぬれた目を上げて明子を見つめた。

「実は松島グループが学校を買収する方向で動いているの。今の佐久間一家は財産を全て失うことになる。ひょっとしたら、あの信子さんも明日はもう学校へは来ないかもしれないわね。真紀さん、ごめんなさいね、もっと早くにわかっていれば何とかしてあげることができたかもしれないのに…… 」

それを聞いた真紀とその母親は持っていき場のない悔しさが溜まりにたまって、もう学校を辞めるしかないとまで考えていただけにこの朗報に救われるような思いであった。

佐久間親子、報いの始まり

 話はガン特効薬のことに戻るが……

 佐久間商事は、厚生労働省の《単価を適正にするように》という再三にわたる指導にも従わず、会社の経営危機を理由に現状の高値を維持していた。

 このことについては、弱者を守れない厚生労働省が、マスコミで叩かれるなど、大きな世論を巻き起こしていた。

その頃、これまで中山製薬株式会社が申請を行おうとしていた新たなガン特効薬については、松島グループが共同申請者となり、様々な審査が行われていた。

 これまでも非臨床試験の成果は十分に期待できるものであったが、臨床試験へ移行できない唯一の課題であった企業の安定性という問題が、松島グループの参画によりクリアされたこと、加えてその開発者が、サクマを開発した多田秀樹であること、この二点により臨床試験へ向けた動きが急ピッチに進みだした。

 これは指導に従わない佐久間商事と世論への対応を急ぐ厚生労働省の思惑が大きく関与したためでもあった。

 そのため一ヶ月後には中山製薬株式会社、松島グループの共同申請によるガン特効薬ナカヤマの臨床試験が開始される運びとなった。

 このことは全国でもトップレベルのニュースとして取り上げられ、サクマを開発した多田秀樹の、「サクマを大きく上回る効果が期待できるはず」というコメントも載せられ、臨床試験での協力を希望するガン患者が後をたたなかった。

 サクマを常用していた者でさえ博士のコメントに大きな期待を寄せ、臨床試験に申し出てくるものが多かった。

その結果サクマの売り上げが急激に落ち込んだ事は言うまでもなく、佐久間商事は再び、倒産の危機に陥った。

真紀がすべてを打ち明けた日、佐久間商事株式会社は不渡りを出し倒産することとなった。会社更生法の適用を受ける間もなく、あっという間の出来事であった。

 その翌日、明子の予想通り佐久間信子は学校へは来ていなかった。

 朝一番で全校集会が行われ、校長から経営者が変更になる可能性があるが、学校の教育自体は何の影響も受けないので心配しないようにとの説明があり、その日は休校となった。

 真紀は、直ちに担任の藤原恭子のもとへ行き、昨夜の松島家での出来事を全て話した。

 一安心した藤原ではあったが

「私の戦いはまだ済んでいないの、あの校長を道連れにして、私も辞めるつもり……」

 鋭い目つきで意を決したように話す彼女に

「先生、経営者が松島に変わったら、あの校長だって、いられないですよ、だから、もう少しだけ待って、お願い!」

 真紀は懸命に語りかけた。

「ありがとう、何もしてあげられなかったのに、ありがとう……」

信子の父親であり、亜美の夫である佐久間商事の社長、佐久間遼一は、前日の夜ひとりで姿をくらましてしまった。

残された亜美は、信子にそのことを話し、翌日には家を出ていかなければならないこの二人は、頼るあてもなく途方にくれていたが、亜美は、松島グループのたか子なら何とかしてくれるかもしれない、そう思って二人は松島邸を訪ねた。

預金は全て凍結されてしまい、手元に残ったわずかなお金と小さな荷物を持って二人は三〇分の道のりを歩いてようやく松島邸へたどり着いた。

それは、真紀がすべてを打ち明けた日の翌日のことであった。

佐久間母娘が訪ねてきたことを知った明子は、 二人をメイドの控室へ通させた。意識して待たせたわけではないが、彼女は休校になって帰宅しているはずの真紀とその母親が来るのを待っていた。

これは佐久間親子にすれば酷なことであったかもしれないが、明子は、あまりにも理不尽な、言うに言われない屈辱を受け、持っていき場のない怒りをどうすることもできない真紀親子を、この場に同席させて無念だけは少しでも晴らさせてやりたい、そしてできることであれば、真紀親子の怨念を断ち切るきっかけにしてあげたいと考えていた。

明子が、 二人を伴い、佐久間親子が待つ部屋へ出向いたのは三〇分後のことであった。彼女に続いて、真紀と彼女の母親が入ってきたのを目にすると、亜美は驚いて唇をきりっと閉じると目を見開いて俯いたが、信子はそのまま俯いてしまい顔を上げることができなかった。

二人は明子に促され、彼女の隣に座った。

しかし、気を取り直した亜美は明子に目を向けると毅然とした態度で

「松島の家では、客をこんなところで待たせるの。お茶も用意しないで…… 非常識にも程があるでしょ!」

 彼女を睨みながら上位に立とうとしていた。

「あなた方を客と言われても困るのですが、どういったご用件でしょうか? 」明子が顔色一つ変えずに機械的に尋ねると

「たか子さんに会わせてほしいの…… 」

 亜美は再び、威厳を装って用件を述べたが

「ですから、どのようなご用件でしょうか? 」

 明子は冷静に重ねるだけだった。

「あなたでは話にならないわ、たか子さんに会わせて!」亜美は必死だった。

「何の用事かもわからない人を会長に会わせるわけにはいきません。まず私が用件をお伺いいたします 」

 明子はあくまで冷静である。

「あなたは何様なの? 佐久間亜美が、たか子さんに会いたいって言っているのよ、それがわからないの? 」

(財界では、佐久間亜美の名前を知らない者はいない)

そんな身勝手な独りよがりの自負が、会社を失ってしまった今も『佐久間亜美が』という言い方を無意識の内にさせてしまう。

依然として強気を装ってはいるが、明子にはその亜美の様子が滑稽でしかなかった。

「私に話せないというのであれば、お引き取りください 」

明子が真紀親子に目配せして、静かに立ち上がって部屋を出て行こうとすると

「ちょっと待って、いいわ、わかったわ、あなたに話すわ……」

観念した亜美は、弱々しい声で懸命に明子を引き留めた。

明子は振り向くと再び静かに椅子に座り、腰を上げかけていた真紀親子も座りなおした。

 しばらくの沈黙があった後

「実は会社が大変なことになって、助けて欲しいの…… 」

 余りにも惨めであった。

「会社が不渡りを出したのは存じておりますが、何を助けてほしいのですか?」冷たい口調で明子が続けた。

亜美は、真紀親子にちらっと目を向けたが 

「資金援助をお願いしたいの……」

思い切って言葉にした。

「お金を借り入れたいと言うことですか? 」

明子の機械的な話し方が続く。

亜美は、再び真紀親子に目を向けたが、もう必死に

「そうなの、屋敷も差し抑えられてしまって、行くところがないの…… 以前たか子さんとお互いに何かあったら助け合いましょうねって、話したことがあるの、だから助けてほしいの」すがるように話した。

「それは、昨年の新年互礼会で、あなたが何かあったらいつでもお助けしますよって言ったことに対して、松島がお礼を言った…… その事を言っているのですか? 」

「そうよ、そのことよ、もし逆であれば、私はたか子さんに手を差し伸べるわ、でもいまは逆になってしまった、だから助けてほしいの!」

悪行を重ねてきた人間でも、自らが落ちてしまうと、他人の善意にすがろうとする。

人である以上、仕方のないことではあるが、彼女たちは重ねた悪行が大きい分だけ惨めさが大きく、その落差が計り知れない分だけ、そこに渾身の思いがあった。

まさに藁(わら)にも縋(すが)る思いであった。

「何か大きな勘違いをされていますね。あなたは松島グループと佐久間商事が同格だと思っていたのですか?」

「えっ」亜美が驚いて目を見開くと

「当時の佐久間商事の資産はたかだか五百億程度でしょ。松島の個人資産がどれだけあるか知っていますか。佐久間の資産の一〇倍以上ですよ。しかも個人資産ですよ」

「……」亜美は驚いて言葉が出なかった。

「本当なら笑われても仕方がないようなあなたの発言に対して、松島は笑いもせずに笑顔で礼儀正しく応えただけです。そばで聞いていた私はおかしくてしかたありませんでしたよ。まあそれはいいとして、もし資金をお貸しした場合に、返済の目途はあるのですか?」

 明子は尋ねた。

「今はないわ、でも必ずお返しするわ。佐久間亜美を信じて欲しいの 」

 佐久間亜美がその悪行ゆえに有名であるなどということは考えたこともない。

佐久間亜美は、佐久間商事をあそこまで大きくした才覚のある女性、世間からはそうした敬意にも似た思いで見られているという彼女の独りよがりな自負がまだ続く。

「申し訳ないですが、これまでのあなた方の行いを見ていて、何を信じろとおっしゃるのですか?」

 正にこれまでやって来たことを思いだしてみなさい、と言わんばかりであった。

「でも、私はこれまで会社を大きくしてきたわ…… その実績を信じて欲しいのよ……」

「ですから、どうやって会社を大きくしてきたのか、そこをよく思いだして下さいって言っているんですよ、ご理解いただけませんか?」

「でも……」

「大量発注をするからと、設備投資を持ちかけられ、多額の借り入れをして設備を増設した途端に発注を打ち切られ、会社を失った方の奥さんがうちでメイドをされていますよ」

「私にメイドになれって言うのっ!」

「誰がそんなことを言っているのですか。でもあなたに会社を奪われたその方は、立派だと思いますよ。負の財産を背負う前に会社を手離して、人生の再スタートを切ったのですから……」

「……」

亜美には返す言葉がなかった。

「目途のないあなたにお金をお貸しすることはできませんよ 」

答えは決まっていたのだが、真紀親子のために哀れな佐久間親子の姿をここまで引き伸ばしたのである。

しかし

「たか子さんに会わせて、たか子さんならきっとわかってくれるわ」

さすがに亜美は諦めない。

「それはできません。あなた方のような人達を会長に会わせるわけにはいきません。どうかお引き取りください 」

 機械的に、しかもけだるそうに明子が言い放つと

「あなたは昔のことを根に持っているのね…… 」

亜美は唇をかみしめながら、明子を睨んだ。

「あなたはまるで子供ね、昔と全然変わっていないわ。どうかお引き取りください 」明子は呆れた様に重ねた。

「家をなくして、お金もなくして、私たちにどこへ行けと言うの…… 」

先ほどまでの勢いはなく、ただ俯きながらそう言うのが精一杯であった。

「それは私たちがお答えすることではありませんね。むしろ債権者の所へ行ってお話をなされてはどうですか? 」

 明子は、哀れな親子を目の前にしても心を乱すことなく、正論を突き付けた。

「せめて一ヶ月でいいからここにおいてちょうだい、本当に行くところがないのよ」

明子は、一変してすがるような亜美を侮蔑の念を持って見つめたが、

「真紀ちゃんのお母様、第三者の客観的な目で見て、どう思いますか? 」と静かに尋ねた。

しばらく沈黙が続いた。

真紀の母親は、スカッとするどころか、むしろ気の毒な思いの方が募ってきて、できることであればこの場から立ち去りたいという思いがあったが、ふと娘の真紀を見ると、彼女は口を一文字に結び、俯いたままの信子を冷たい視線で睨み続けていた。

(竹刀で何十回も叩かれたこの子の悔しさは想像がつかない、だから同情だけは絶対にしてはいけない)

そう思った彼女は意を決したように静かに話し始めた。

「世の中には、破産したり、借金をしたり、大変な方がたくさんいらっしゃいますよね。この家でその人たち、みんなの面倒を見ていたらきりがないですよね。このお二人が松島にとって特別な方であれば話は別ですが、そうでなければこの方々だけに手を差し伸べるのは、ある意味おかしいですよね」

 彼女は佐久間親子よりもむしろ明子に向かって話をした。

「おっしゃる通りですね。どうしてあなた方の面倒を一ヶ月も見なければならないのですか。 頼ってくるところを間違っていませんか?」

明子は口を荒らすことなく、冷たく亜美を見つめた。

この二人のこれまでの悪行を考えれば人として腹立たしいことは言うまでもなかったが、彼女は常に冷静であった。

(この二人に罰を与えるのは私ではない、それはこの二人のこれまでの行いが決めること、それが結果として報いという形で現れるだけのこと……)

「お願いだからたか子さんに会わせて、彼女の答えは違うはずよ!」

亜美はたか子に会わせてもらえないことで苛立っていた。

(あの気のいいたか子なら丸めこめる、とにかく彼女に会わなければ……)

そう思った亜美は、突然立ち上がると部屋を出て、

「たか子さーん! たか子さーん!」大きな声で叫び始めた。

驚いたのは居間で奈々子と楽しそうに談話していたたか子であった。

慌てて近寄って行った彼女は

「まあ佐久間さん、どうなさったの? 」

彼女は佐久間親子が来ていることを知っていたが、そのことを奈々子には伝えていなかった。

驚いた奈々子も立ち上がったまま、呆然としてその光景を見守っていた。

「会社が大変なことになって困っているの! 行くところがなくて困っているの、助けてください、お願い!」

涙を浮かべた亜美は懸命にたか子にすがろうとした。

「ええ、伺っているわ、大変だったのね。明子さんとしっかりお話ししてね 」たか子が優しく微笑むと

「あの人は話にならないの、お願い助けて!」

「申し訳ないけど、私はこうした話はよくわからないの、すべて明子さんが対応してくれるの、だから、ちゃんと彼女と話をしてね」

たか子はなだめるように静かに話した。

「あの人は昔のことを根に持っているの、だから私を助けるつもりはないの! ここで私を見放したら、松島グループは世間の笑いものになるわよ! だから助けて、せめて一ヶ月でいいの、 一ヶ月だけでいいからここに居させて、お願い!」

もう恥も外聞もなくした彼女は

(ここで見放されたらもうどうにもならない)と、渾身の思いでたか子にすがった。

「世間の笑いものになったら大変ね、でもそれが明子さんの判断なら仕方ないわね。この家はね、あの人でもっているの。あの人の判断が全てなのよ。だからあの人の決断を私が曲げる事は絶対にないのよ、分かって下さるかしら……」

哀れな女の一生懸命はあっという間に打ち消されてしまった。

後に来ていた明子が、静かに

「部屋へお戻り下さい、これ以上恥をさらすのは良くないでしょう 」

冷たく言い放つと、亜美は俯いたまま部屋に戻っていった。

部屋では真紀が、依然として俯いたままの信子を睨み付けていた。

「真紀ちゃんとお母様、ちょっとよろしいかしら?」

明子に促され二人が別室へ移動すると明子は静かに話し始めた。

「あんな人達でも、あんな哀れな状況を見ると、お二人ともあまりいい気はしないでしょう。本日、同席頂いたのはお二人に決してスカッとして欲しい、そういう思いがあったからではありません。でも何かきっかけがなければ、お二人はあの悔しさをいつまでも引きずって生きていくことになります。だからせめてその思いをここで断ち切っていただきたいと思って……」

母親には明子の暖かい思いが胸に沁み込んでくるようであった。

「もう私は充分です。これ以上同席すると、自分が罪を犯しているようで辛いです。もう彼女たちの事は綺麗さっぱり忘れてしまいます。本当にありがとうございます。明子さんのおかげです」

 母親は目頭を熱くして頭を下げた。

しかし、

「私は嫌です。気がすまない、竹刀で何十回も叩かれて、絶対に許さない! 」

真紀は一点を見つめたまま強い口調で思いを語った。

明子の思いは十分に理解できたが、持っていき場のない憎しみが疲れ果てた彼女をまだ突き動かそうとしていた。

明子と真紀の母親は顔を見合わせると悲しそうに目で頷いた。

「真紀ちゃん、あの二人が今後どのような生活をしていくか想像ができる? 」

優しく明子が尋ねたが

「…… 」真紀は明子を見つめ、わからない……と言うように、無言で頭を小さく振った。

「あんな生き方をしてきたから、誰も助けてくれる人はいないわ。家もなくして、お金もなくして、どんな人生が待っているんでしょうね。どんなところで働くのかしら…… これからどんなところに住むのかしら…… どこか日も当たらないような一間を借りて、食べるものもなくて、人として最低レベルの生活をしていくのでしょうね」明子は静かに話した。

「……」真紀も静かに聞き入っていた。

「場合によると身体を売って生きていくことになるかもしれないわね。でもそれは、結果として報いを受けた彼女たちが何処へ落ちていくのか、ということだと思うの! それは私たちが決めることではなくて、願うことでもなくて、彼女たちのこれまでの罪が彼女たちの行き着く場所を決めてくれるのだと思うの……」

やさしい明子の言葉に、真紀の心に住み着いていたやり場のない激しい怒りが少しずつその色を薄めようとしていた。

彼女が止めどなくあふれ出る涙を両手で覆いながら立ち尽くしていると、明子は両手で彼女を抱きしめ、

「大丈夫、あなたなら大丈夫、この怒りをいつか人生の糧にすることができる。だからここまで…… 彼女たちに対する憎しみはここまで! ここから先はあなたが自分を見失ってしまう…… だからここまで!」

明子は彼女をさらに強く抱きしめ、優しく頭を撫でてやった。

もう彼女の怨念は明子に吸い取られるかのように静かに消えていった。

明子はさらに続けた、

「大学を出たら私のところへ来なさい、私は、あなたにもっと色々なことを教えてあげたい……」

真紀は、明子から少し離れると涙でぐしゃぐしゃになった顔で微笑み、

「ありがとうございます。本当にありがとうございます。いつまでたっても消えない悔しさをどうしたらいいんだろうって、胸が苦しくなって、何もかもわからなくなって、でも…… もういいです。もう関わりたくない! 支配人のおかげです。本当にありがとうございます」

明子はその様子を見ていた真紀の母親に優しく微笑んだ。

「あの佐久間親子は、今夜一晩だけは泊めてあげて、明日の朝には出て行ってもらおうと思います。それで良いですよね 」

二人は静かに頷いた。

そして翌朝、佐久間母娘は小さな荷物を抱えて、寂しそうに松島の家を後にした。

それを聞いたたか子は、

「でもあの二人は借金を背負っているわけじゃないんだから、財産がなくなっただけだから、まだやり直すチャンスはあるわよね……」

そう言ったのだが、明子は、それは難しいと思った。

奈々子の危機

 その翌日から、佐久間商事の後処理が始まったが、さすがに経営の傾いた学校法人を引き継ぐものは松島グループ以外にはなかった。

 明子は、松島の家で三年間メイドとして仕えてくれた高野綾を理事長にすえることを考えていた。

この高野綾は現在四五歳で、もともと中小企業の社長夫人であったのだが、会社が立ち行かなくなったのを機に、個人的負債を抱える前に会社更生法の適用を受け、養子であった夫はどこかに消えてしまったにも拘わらず、彼女は年老いた母親と二人の子どものため人生の再出発を期して、この松島の家で働くことを決意した女性だった。

 経済学で博士号まで取得した人であったが、それまでの贅沢だった生活にけじめをつけ、メイドとして一身に働く彼女の姿はたか子や明子の心に響いていた。

 たか子自身も彼女のことを常に気にかけており、彼女の才能を生かせる場所が無いかと考えていた。

「会長、私が理事長になればいいのですが、正直やや負担でもあります。もしご理解をいただけるのであれば、綾さんに理事長になっていただいてはどうかと考えております。どうでしょうか?」

「あなたの思うようにやって…… もし学校経営が厳しくなれば、私の個人資産をいくらでも使って! それより綾さんにいいポストが見つかってとても嬉しい。どこかいいところがないかしらって、いつも考えていたのよ」

「私もここが良い機会だと思いました。それではこれで進めさせていただきます」

 最初、綾は懸命に辞退したが、最後にはたか子が説得にあたり、涙をながしながら、彼女に感謝し快く受け入れた。

前校長も、一度スイッチを切ってしまった人間だからと、受け入れを渋ったが、それでも、今いる子供たちのために、学校を立て直すことができるのはあなただけですという、明子の強い説得に、意を決してくれた。

当然のごとく、現校長には再採用の意思がないことを伝えた。

学校は、平和を取り戻し、生徒たちの明るい声が充満していた。

二学期も半ばになると、奈々子は車での送迎を断ろうと考えていた。

心身が安定し、心が満たされてくると、少なくても放課後はもう少し自由に動きたいという思いが強くなり、彼女はそのことをたか子に話した。

それを聞いたたか子は顔を曇らせて悩んだ。

「困ったわねー、奈々子ちゃんの思い、かなえてあげたいけど……」

たか子のこんな困った様子を見るのは初めての奈々子には、何が問題なのかわからなかった。

「ママ、奈々子はちゃんと一人で帰ってくることできるよ、子どもじゃないんだから……」

「それはわかっているんだけどねー」

ちょうどそこへ明子がやって来て、たか子から話を聞くと、

「奈々子さん、気持ちはわかるけど……  ちょっと難しいわね」

「えっー、どうしてなの、奈々子、全くわかんないよー」

「こんなこと言いたくないんだけど…… もう会長の娘だっていうことが、世間では定着してしまっているから、一人でいたりしたら危険なのよ、誘拐される可能性があるの」ついに明子が懸念を打ち明けた。

「えっー、びっくり、でも…… 」さすがの奈々子も言葉がでなかった。

(こりゃ、無理だわ) 

そう思った彼女は半ば諦めかけていた。

「でも、学校帰りに、お友達と出かけたいこともあるわよねー」

「困りましたねー」

「さすがの明子さんにも、いい案がないのかしら…… 」

「そうですねー、奈々子さん、とりあえず、週に一日で始めてみない?」

「えっ、いいの?」奈々子が少し微笑んだ。

「でも、曜日を決めて、定期的にするのはだめよ、週によって曜日を変えないと、ねっ」明子の苦肉の策だった。

明子の考えていることが何となくわかったたか子は微笑んで、

「とりあえず週に一日で我慢できるかしら?」やさしく尋ねると

「できる、できる…… 大丈夫、ありがとう!」彼女はとてもうれしそうに笑顔で答えた。

その翌週から、奈々子の一人帰りが始まった。

一人といっても、必ず真紀と裕子は途中まではいっしょで、彼女は、週に一度の自由奔放を満喫した。ある時はカフェで、ある時はゲーセンで、そしてカラオケで女子高生らしい放課後を楽しみ始めた。

ただ週に一度のこの日は、必ず、少し離れた所から彼女を見守るボディーガードが配備されていた。

たか子自身、子どもの頃に何度か誘拐されそうになった経験があり、身をもってその恐怖を知る彼女は気が気ではなかった。一人帰りの日は、奈々子の顔を見るまで不安で、ふとそんな時に生まれる悪い思いは彼女の胸を苦しくするほど襲いかかってきた。

それでも、

「ただいまー」奈々子の明るい声が聞こえると、たか子は胸をなでおろし、玄関まで出て、彼女を抱きしめるのであった。

奈々子はそのたびにたか子の深い愛情を感じ胸が痛んだが、それでもこの週に一度の楽しみは捨てがたく、彼女はいざと言う時のために、携帯の電源を切れば、家のパソコンが鳴り響き、自分が誘拐されたことと、その位置を知らせることができるように仕掛けを整備した。

一一月の第一週、水曜日のことである。

今日は、奈々子が自由奔放を楽しむ日で、裕子に付き合って、下着を買った後、カラオケで歌いまくる予定だった。

バスで一〇分ほどの中心街へ出向くと、裕子お気に入りのランジェリーショップがあり、そこへ入った三人は見たことのないようなセクシーな下着を前に、キャッキャ言いながら楽しそうにいろんなことを空想していた。

しかし、裕子が手に取ったものを見た真紀は、私も試着してみる、そう言って同じものを手にとると二人はそれぞれ試着室入ってしまった。あまり興味のない奈々子は鼻歌を歌いながらあたりを見まわしているとOL風の若い二人の女性が店員に外を指差し何か言っているようだった。ふと外を見ると道路の向こう側でこの店を見つめている男が居ることに気がついた。

店員がその男の方に見とれている間に、 二人の女性は奈々子に近づくと

「警察です。外に不審な男がいます。 危険なので裏口から出ていただけますか?」と言って、脇に抱えるようにして、あっという間に外に連れ出された奈々子はワンボックスカーの中に乗せられてしまった。

「えっ、えっー! 何なんですか?警察なんでしょ!」

「お嬢さんすみません、多田奈々子さんですよね! 私は総理大臣直轄の研究施設レスクの所長で中川と申します。ぜひあなたに助けていただきたいことがあって、一緒に施設に行ってくれませんか?」

五〇歳前後の人の良さそうな男の言葉に、奈々子は

「ママは知っているんですか?」と尋ねたが、

「いいえ、誰も知りません。内々であなたにお願いしているんです 」

その男は訴えるように言ったのだが、

「じゃ、ママに聞いてみます……」奈々子が言うと

「それは困ります、ぜひ来ていただかないと困ります」その男は必死だった。

「これって誘拐なんですか?」

「いえ、誘拐ではありません。お願いしているんです。」

「じゃあ帰らせてください」

「それはできません、来ていただかないと困ります」

「誘拐じゃないですか、ママが知ったら怒りますよ」

「いやそれは困ります、お願いします、来てください」

「だから、ママが心配するから、ママに断ってからにして!」

「すいません、来て頂きます」

この人たちは決して誘拐犯のようには見えなかった。

何か困っていることがあるのだろう……

奈々子はそう思ったが、それでもたか子が心配する様子が目に浮かぶと胸が苦しくなって

「あなたたち、悪い人じゃないのはよく分かるけど、誘拐するんだったら携帯の電源をつけたままでもいいの?」

「いやそれは……」

「お粗末な誘拐犯ね、電源切るわよ。ママに見つかったらあなたたち殺されるわよ。美人で優しそうに見えるけど、怒ったら怖いのよ 」

一方松島の家では、ボディーガードや真紀から連絡を受けたたか子と明子は顔色を変えて大慌てしていた。

その時だった。

奈々子の部屋のパソコンがけたたましいサイレンをあげて、奈々子の声で叫び始めた。

「ママ、助けてください、奈々子はここです。ママ、助けてください……」サイレンと奈々子の叫ぶ声が交互に大きなボリュームで流れた。

画面では奈々子の位置が星印ではっきりと示されていた。その印は国道六―三号を東へ向かって少しずつ動いていた。

松島の家で待機していたガードマンがその情報を本社へ転送すると既に出動していた三台の車がその情報をもとに、奈々子を誘拐した車を追跡した。

たか子と明子も家の車でその位置を追ったが、 二人は血の気が引いてもう生きた心地ではなかった。

しかし一〇分もしないうちに警備会社から出動した三台の車が路上で奈々子を誘拐した車を取り囲むように停車させた。

そこにたか子と明子がやってくると、 三台の車から九人のガードマンも出てきてワゴン車のドアを開けさせた。

中から「ママ、有難う!」と言いながら手を広げてでてくる奈々子を見たときたか子は涙がこぼれおちるのどうすることもできなかった。

「私は、総理大臣直轄の研究施設レスクの所長で中川と申します。ぜひ、奈々子さんに……」と言いかけた時に、

「何が総理大臣直轄よ、人の娘をさらっておいて、ただで済むと思わないで!私の持てるもの全てを使ってあなたたちを抹殺してやるから!」

こんなたか子の形相は誰も見たことがなかった。目を見開き所長を睨み付ける彼女は、まるで別人のようになっていた。

「気持ちはわかります、でも私達は民間の方にご協力をいただく権限を持っています。この件につきましては総理大臣の許可もとっております。どうかご理解ください」

所長は懸命に協力を依頼するが、たか子は彼を睨みつけたまま一言も話さなかった。

明子は直ちに総理大臣秘書に電話を入れたが、現在総理は会議中で電話に出ることができない旨を聞くと

「あなた、民自党は松島を敵に回すのね、わかりました。電話を切った彼女は幹事長へ電話を入れて、詳細を説明すると、 五分して総理大臣秘書から電話があった。

「本当に申し訳ありませんでした。すぐにやめさせますので中川所長に変わっていただけますか?」

電話の取った中川は「はい、はいわかりました」そう答えると再び電話を明子に戻してきた。電話を耳につけた明子はひたすら謝る総理大臣秘書に向かって

「はっきり言っておきますよ、今回の件で松島はこの上なく憤慨しております。自分の命よりも大事なもの誘拐されようとしたんですから、秘書のあなたが電話で詫びてすむような問題ではありませんよ、松島は今後、民自党とは関わってまいりません、そのことをしっかりと総理にお伝えください」

そこまで言うと、相手の対応も聞かず、電話を切った。

「さぁ奈々子ちゃん、帰りましょう」

総理の秘書から諦めるように言われてうなだれている所長を横目で見ながらたか子が奈々子の肩に手を回した。

「ママね、あの人たち本当に困っているみたいなの、どうもならなくなってこんなことしたんだと思うの。車の中で話をしている時、みんな本当にいい人だったの。もし奈々子が力になれるのなら助けてあげたい…… 話だけでも聞いてみたいの、だめ?」

「奈々子ちゃん怖くなかったの…… 」驚いたようにたか子が尋ねると

「全然大丈夫! あの人たちいい人だったから、車の中でも助けてください、お願いしますって、だから本当はそのまま行って助けてあげようかとも思ったけど、ママが心配するから、そう思ってとりあえず合図を送ったの、ごめんねママ心配かけて…… 」

「いいのよ、奈々子ちゃんが怖い思いをしたんじゃないかと思って…… それが心配で…… 」

たか子はそう言うと両手で奈々子を抱きしめた。

そして涙をぬぐって我を取り戻したたか子が

「ほんとに話を聞いてあげるの? 大丈夫? 」心配そうに尋ねた。

「ママ、大丈夫よ、それよりもママが怒っていないのなら話を聞いてあげたい!」

「わかったわ……」

そばで聞いていた明子は、急いで中川所長のところへ行った。

ワンボックスの中でうなだれていた所長に

「松島の家まで一緒にお越しいただけますか?」

「えっ……」

驚いて目を見開いた所長に

「奈々子さんが、お役に立てるのなら力になりたいと言っています 」

明子は静かに奈々子の思いを伝えた。

「本当ですか、お邪魔してもいいんですか…… 」

所長は嬉しそうに満面に笑みを浮かべて尋ねかえした。

「かまいませんが、所長一人にしていただけますか」

「あっ、はい、ひとりで大丈夫です 」

松島邸へ帰る奈々子を乗せた車の後を黒のワンボックスカーが続いた。

会議室に通された中川所長は、

「あんなことをしてしまったのに、話を聞いていただけるなんて……

お礼の言葉もありません。本当にすいませんでした……」

「所長さんごめんなさい、私もこの娘が怖い思いをしたんじゃないかと思って取り乱してしまいました。でも話を聞くと優しく接していただいたみたいで、誘拐されておいてお礼を言うのもおかしいんですけど、ありがとうございました」

奈々子はにこにこしながらそう言うたか子を見つめていた。

「それで所長さんは、奈々子さんに何を見てほしかったですか?」

明子が切り出した。

「実は五年ほど前から小細胞がんのがん細胞を収集する物質の研究を進めています。要はがん細胞を吸いよせる磁石のようなものです。一年ほど前にほぼ完成に近づいたのですが、プログラムを策定する過程でどうしてもエラーが生じて、回答まで結び付けることができません。そのプログラムをチェックして欲しかったのです」

「難しいお話ですね、それは答えが分かっているけどその答えに持っていけないということなんですか?」たか子が不思議そうに尋ねた。

「そうなんです。がん細胞を惹きつけることができる物質はもう分かっているんです。だから後はいかにしてその物質を作るかということなんです。

多様な物質を分解したり、融合したり、様々な化学変化を起こさせて、最後にその物質ができるようにプログラムを作っているのですが、どのようにしても出したい答えが出てきません。もう一年以上そのことを検証しているのですがわれわれではどうにもなりません。そんな時、博多の松島薬品での噂を聞きまして、なんとかお力をお借りしたい……このように思った次第です 」

「そんな難しい事がこの娘にできるんでしょうか?」

「私にはわかりませんが、もうお嬢さんにお力をお借りするしかありません」

「そのプログラムは今あるんですか?」

黙って聞いていた奈々子が目を輝かせて尋ねた。

「はい、打ち出ししたものとメモリは常に持ち歩いてます」

彼はそう言ってまず打ち出しした資料を取り出した。A四サイズで三〇〇枚を超えるものだった。

たか子と明子は、それを見ると顔を見合わせ目を大きく見開きため息をついた。

奈々子はその莫大な資料に一枚ずつ目を通して一〇ページ目あたりにさしかかった時、

「一つ、見っけ……」そう言うと顔を上げて所長に微笑んだ。

「えっ、もう何かわかったんですか? 」

「これ時間かかるわ……」奈々子はそう言うとしばらく考えた。

「ご連絡いただければまた改めて出直してまいりますが……」

「えっ、いくらかかっても、そこまではかからないと思いますよ」

「えっ……」所長も驚くというよりは呆気に取られている感じだった。

「奈々子ちゃんどのくらいかかりそうなの、ちゃんと教えてあげないと所長さん驚いてばかりじゃないの……」

「テヘェ、ごめんなさい所長さん、でも一時間はもらわないと……」

「えっー、そんなに簡単にできるんですか、大の大人が何人もかかって、一年かかってもできないのに、それをたった一時間で……」

「所長さん、まだできたわけではないですから、期待しないで待ちましょう」

「はい……」

「期待してても大丈夫だよ」奈々子がウインクして自分の部屋へ行くと、たか子が所長に尋ねた。

「でもどうして、今日奈々子が一人で帰るって知ってたんですか? 」

「えっ、どういうことですか? 」

所長は不思議そうに尋ねかえした。

「あの娘は、 一週間に一日だけ友達と一緒に帰るのです。その他の日は車で迎えに行ってます。何かあるといけないので、 一週間に一度だけ不定期であの娘の自由にさせています。どうしてそれが今日だとわかったのか不思議なんです」

「えっー、そんなことは全く知りませんでした。いつも友達と帰っているのかと思ってました」

「そうなんですか、じゃあ少し離れたところにいたボディーガードのこともご存知なかったんですか」

「えっー、そんな人がいたなんて全く知りません」

「でもよくそれで誘拐できましたねー」たか子は微笑ながら話した。

「いや、素人が四人で出たとこ勝負でしたから…… 三人が下着の店に入ったので、うちの女性二人がチャンスとばかりに店に入って、怪しい男がいるから一緒に裏から出ましょうって言って…… 今思うとその怪しい男ってボディーガードの人だったんですかねー」

「所長さん楽しいですね、あの子が力になってあげたいって言うはずです」

明子もそばで微笑ながらその会話に耳を傾けていた。

四〇分ほどすると、奈々子が帰ってきた。

「できましたー、プログラム三つほど追加したのでちょっとかかっちゃいました。プリントするのにも時間がかかっちゃいましたー 」

笑顔で彼女がそう言うと

「ほんとにできたんですか」

疑っているわけではないのだろうが所長は目を見開いて尋ねた。

「はい、どうぞ」奈々子はそう言うとプリントアウトした三〇〇枚以上の用紙を所長に渡した。

最後の一ページを見た所長は、

「本当だ、答えが出ている…… ありがとう、本当にありがとう、この恩は一生忘れません。これでたくさんの人たちを救うことができる、本当にありがとうございます」

所長は涙を流しながら何度もお礼を繰り返した。

堕ちて行く佐久間親子

 話は、松島の家を出た佐久間親子のその後に戻るのだが…

 彼女達は、バスで二時間ほど揺られ亜美の出身地に向った。

 ここで生まれ育った亜美は、かつてこの地域の田辺興産という企業の事務員からスタートしたのだった。

 父親を早くに亡くし、母親も高校に入ったばかりの彼女を置いて男と消えてしまい、食べることにも苦労した彼女は、どんな仕事でも文句ひとつ言わずに懸命に取り組んだ。

 学歴もなく貧しい育ちの十代の娘だった亜美の、負けん気の強い根性が気に入った先代の社長は、彼女に様々なことを教育し、実践に強い人間に育て上げた。

 田辺興産を一代で築き上げた先代は、家族もなく、たった一人でがんばってきた人だったので、亜美の苦労がよくわかっていた。

 そのため、彼は彼女を娘のようにかわいがり、秘書のような仕事もさせていた。

 彼女が三十歳を過ぎた頃、なかなかいい話のない彼女に、佐久間商事の社長の後妻にならないかと打診したのも彼であった。

「年は離れているが、気のいい男だ、奥さんになれば、そのうち会社は君の思うがままだ、権力と金、君が望んでいるものだ。できれば、初婚の相手を、と思っていたが、なかなか難しい、これが私にできる精一杯だ、考えてみるかね?」

 こうして彼女は後妻におさまったのだが、その後、彼女は彼の忠告を全く聞き入れず、ただ走り続けた。

 しかし、先代は、いつかこういう日が来るだろう、でも、もう一度だけチャンスを与えたい、と考えていた。若くして、自らの子どもを身ごもり、その命を守ってやれなかったこの男の償いの思いがそこにあった。

 動けなくなった先代の部屋へ案内された亜美は、涙が出た。言葉を自由に操ることもできず、不自由な体で喜びをいっぱいに表した先代は、息子の嫁に、用意してある一億円をだしてやるように言った。

 しかし、傍で聞いている者には、その言葉の意味は全く不明であった。

 部屋を出た息子の嫁、聖子は、

「先代が『少しでも貸してやれないか』と言っているので考えたが、担保もないので難しい。でも娘さんをここで十年メイドして働かせてくれるのであれば、三六〇〇万円の税引きで三二四〇万円を先払いしてもかまいませんが……」そう提案した。

(なんでこんな人に一億円も払うの、ばからしい!)

聖子はそう思ったと同時に、かつて悔しい思いをした兄の子、たった一人の姪の恨みを晴らしてやりたいという願いもあった。

決してこのチャンスは逃したくない、なんとしてでも娘はここで働かせたい、そして姪の気のすむようにしてやりたい、そんな強い思いが、勝手な提案をしてしまった。

それは信子が、一年生の三学期も終わりに近づいたころであった。卒業式を終え三年生がいなくなった後、陰で学校を仕切り始めたのは、二年A組の才女、筋木亜子であった。

やや吊り上がった大きな瞳が魅力的で、小柄な少女ではあったが、他校の男子生徒の中にも多数のファンがいて、彼女自身も自分のためであれば直ちに駆け付ける男の子はたくさんいると自負していたので、決して怖いものはなかった。

一方、信子は自分を目の敵のように注意ばかりしてくる校長が、三月末で退職になり、四月からは母親の腰ぎんちゃくみたいな副校長が校長になることを知っていたので、ただ一人の仲間である林節子を連れて、父親が佐久間商事に勤めている中野洋子を仲間に引き入れようと第二体育館の裏で彼女を脅していた。

しかしその時、運悪く筋木亜子に見つかってしまい、彼女とその取り巻き五人に囲まれ、

「お前は何様のつもりなの? 一年のくせに!」と亜子が言いかけたところで、

「私は佐久間…」と信子が名前を言おうとしたが

「うるさい!」亜子は《どすっ》と腹に一撃を食らわした。

「ううっー」息ができなくなった信子は顔を歪(ゆが)めその場にうずくまってしまった。

「誰が口を聞いて良いって言ったの?」私が話している時は最後まで黙って聞くのよ!」

 亜子は大きな瞳を吊り上げて信子を片足で踏んづけてしまった。

「うっ」

信子は、ここはしたいようにさせてやる…… そのかわり何十倍にもして返してやるからな! そう思い顔を伏せて耐えた。

「一年坊主がふざけたことするんじゃないよ…… 私が仕切る学校だよ、お前みたいな鼻たれのブスが大きい顔するんじゃないよ!」

「……」信子は俯いたまま懸命に耐えた。

「今度こんなことしたら、許さないよ!」

「すいませんでした」信子は全てを新年度になってからの楽しみにして、おとなしく詫びを入れた。

「さっさと消えな!」

信子と節子は頭を低くして小走りにその場を離れた。

信子は一年生の間はおとなしくしていたので、亜子もその取り巻きも信子が理事長の娘であることを知らなかった。

「信ちゃん大丈夫?」節子が心配そうに尋ねると

「大丈夫よ、何十倍にもして返してやろうと思って、したいようにさせたのよ…… 新学期が楽しみだわ」

そして新学期の始業式の日、信子は節子を伴って校長室に出向くと、筋木亜子に暴力を振るわれたことを報告した。

「中野洋子さんと三人で話をしていただけなのに、突然罵倒されてお腹を殴られて、踏んづけられたんです。節子さんが全てを見ていました」

「わかりました。直ぐに対処します」

四月から校長になったこのもと副校長は、信子の母に感謝し、張り切っていた。

筋木亜子は、校長からの突然の呼び出しに不思議そうな表情で校長室にやって来た。

「あなたは先月、三学期の終わりごろ、第二体育館の裏で佐久間信子さんに暴力を振るいましたね」冷たく侮蔑したような校長の表情に、彼女は不安になったが、

「それは、彼女たちが同級生を脅かしていたからです」

「そんなことは聞いていません。暴力を振るったのですか?」

「はい、少しだけです」

「お腹を力任せに殴って、うずくまった彼女を下足で踏みつけたのが、少しだけなんですか?」

「…」彼女は俯いてしまった。

「この学校にあなたのように暴力を振るう人がいるとは思いませんでした。退学処分を検討しますから、自宅で謹慎していなさい」

「そんな……」彼女は今にも泣き出しそうな表情で校長を見つめた。

「何か、不満ですか?」

「あのくらいで退学なんて……」

「その考え方が間違っているでしょっ、『あのくらいで』とは何ですか!」

「本人はとても心を痛めています。彼女に謝って、彼女と保護者が許すというのであれば退学処分は考え直しますが、そうでない限りは、覚悟していて下さい」

「どうすれば……」

「さきほども言ったでしょっ、とりあえずお詫びに行かないことには話にならないでしょっ!」

うなだれて校長室を出てきた亜子に、節子が近寄って来た。

「バカだね、理事長の娘に手を出して…… 直ぐに第二体育館の裏に来て!」

(理事長の娘だったのか…… 校長も張り切るはずだ! 参ったなー、一発謝って終わらせるか……)

亜子はそう思って第二体育館の裏へ行くと、そこで待っていた信子が亜子を睨むと鼻で笑って、体育館の鍵を開け始めた。

「中に入って!」威圧的な言い方であった。

「この前はお世話になったわね……」信子が薄ら笑いを浮かべて言うと

「あれはあなた達が同級生を脅かしていたからでしょっ!」

「私達はただ話していただけよ、それにたとえ脅かしていたとしても、あなたは何の権利があって暴力を振るったの?」

「それは上級生として……」

「へえー、上級生として後輩に焼きを入れたわけ?」

「ごめんなさい、悪かったわ、謝るから許して欲しいの……」

「ねえ、節子、これが謝る態度だと思う?」

「馬鹿にしているんだよ、普通は土下座して謝るでしょっ……」

「そうね、退学になるかどうかの瀬戸際だもんね」

「……」

「謝りたくなければいいのよ、あなたのパパも近い内に首になるわ、親子三人でどこかへ行けばいいわ……」

「……」

「節子、行くわよ……」

「待って、謝るわ!」

「言葉を間違っているんじゃないの? 『謝るわ』って何よ、『謝ります』でしょ。三年のくせに言葉遣いも知らないの!」

「ごめんなさい。謝ります」そう言うと彼女は床に正座して手を突くと深々と頭を下げて、

「ほんとにごめんなさい、許して下さい」

「もっと頭下げて、床にこすりつけるんだよ」節子は亜子の前にしゃがみ込むと頭を押さえつけた。

「うっ、何するのっ!」亜子は節子の手を振り払うと、顔を上げて彼女を睨み付けた。

「信ちゃん、こいつ全然反省していないよっ、もっと厳しく躾けないと駄目だよ……」

(躾けるって、何よ)

「とりあえず、サクマーズの《パシリ》にでもしちゃう?」

「そうね……」

「だけど、サクマーズの総長に暴力を振るったのに、ただで許してやるの?」

「それもそうよね、まだお腹にあざが残っているのよ」

「お前さー、サクマーズの《パシリ》にしてやってもいいけど、罪は償わないといけないよ」

「償うって、どうすればいいの?」

「その机に手をついて、お尻を突き出すのよ」

「なっ、何ですって!」

「お前さあー、この前、何したか忘れたの?」

「でも……」

「でもじゃないよ、ふざけるんじゃないよ!」

「……」

ここまで腕組みをしたまま黙って見ていた信子は、薄ら笑いを浮かべながら節子の振る舞いに感心していた。

体育館に来るまで、信子には特に考えはなかったのだが、この節子の演出に気をよくして成り行きを見守っていた。

節子は黙ってカーテンの陰に立てかけてある信子の竹刀を手にすると、それを彼女に手渡した。

「これでやるの?」驚いた信子が尋ねると

「だって殴られて、踏んづけられたんだよ…」節子は少しせかすように言った。

「あんた、やっぱり面白いね」

「これぐらいやらないとあいつは懲りないよ……」

「わかった!」

「何をするの? それで殴るつもりなのね? 許さないわよ!」

「何を言っているの、許さないのは私よ…… お前は許して欲しくてここに来たんじゃないの?」

「でも、そんなもので……」

「じゃあ、止めとく? 私はどうでもいいのよ」

「わかったわ……」

亜子は机に手をついて、お尻を突き出したが、この上ない屈辱であった。

「そうなの?言い覚悟ね」信子はそう言うと

ばしっ…… 竹刀を一撃加えた。

「うっ」

亜子は悔し涙を懸命にこらえて、身体を起こすと振り向いて、

「気が済んだでしょっ! これでお相子よっ!」

「あんた、馬鹿?」

「……」

「何がお相子よ、この前の一発と下足で踏みつけたことが、これで済むと思っているの?」

亜子はなすすべもなく、さらに十回の屈辱を受けた後、

「これで、いいのよね、許してくれるのよねっ……」

訴えるように信子を見つめたが、

「とりあえずは、一学期が終わるまで、様子をみることにして上げる。一学期が終わるまでいい子にしてたら許してあげてもいいわ」

亜子は信子の信じられないような言葉に我を失ってしまった。

亜子は、その足で校長室に向うと全てを報告したが

「ちょと待ってちょうだい、あなたは暴力を受けたと言っているけど、それは自分から進んで受けたんでしょっ、それを暴力だというの?」

「でも、断ったら許してくれないし……」

「それ見なさい、納得していたんでしょっ、ちょっとおかしいわよ」

「でも、一学期の終わるまでって…… 無茶です」

「あなたの言っていることは完全におかしいわよ!」

「……」

「だって、それを受け入れるかどうかの判断をするのはあなたであって、他の誰でもないわ。理不尽だと思って受け入れないことだってできる訳でしょっ」

「……」

「それを学校側に訴えられても困るわよ」

「……」

「とりあえず、被害者の彼女がそう言うのであれば、学校としても一時、処分を保留しますけどね」

訳のわからない理屈に返す言葉もなく、彼女は翌日、そのすべてを担任である有信町子に相談したが、

「それは、校長先生のおっしゃる通りね、あなた自身で断ることもできる訳だから……」

(こいつもだめだ!)

諦めた亜子は、その後、二人から召使のようにこき使われ、何度も涙を流しながら屈辱の日々を過ごした。

お昼は、売店に買い出しに行かされ、遅いと正座をさせられ、望んだ物がなければ竹刀で殴られ、日曜日に呼び出されることも少なくなかった。

洋子が手下に加わってからは、亜子への虐めは少なくなったが、それでも屈辱の日々は続いた。

彼女は一学期が終わるまで…… そう思って懸命に耐え抜いて、やっとの思いでその一学期の終業式の日を迎えた。

放課後、いつものようにメールで呼び出された亜子が

「今日で終わるのよね、今日で開放してくれるのよね」すがるように訴えると

「はあー、あんたサクマーズを抜けたいの?」

「そんな……」

「《パシリ》がいないと、サクマーズが困るのよ、二学期が済むまで頑張りなさい」

その日の夜、亜子は全てを両親に話した。

父親も、佐久間商事副社長の関連会社をだますようなやり方に愛想をつかしていたこともあって、一家は父親の妹である聖子の夫が経営する田辺興産を頼ってこの街にやって来た。

妹の聖子夫妻は、佐久間商事のよくない噂を耳にしていたので気持ちよく三人を迎え入れてくれた。

高校についても、成績証明書は悲惨なものであったが、聖子の夫が知る地元の高校の校長に事情を理解してもらい転校はスムーズに行われた。

亜子は、両親には話し切れなかった一学期間の屈辱を叔母である聖子には全て素直に話すことができた。

たった一人の姪である亜子の話を涙ながらに聞いた聖子は腸(はらわた)の煮えくり返るような思いであった。

その佐久間親子が今、目の前にいる。

(絶対に思い知らせてやる)

娘をメイドとして働かせてはどうかという話は、こうした背景の中での提案であった。

「その場合残った年数分を返却すれば途中で契約を解除していただけるんですか?」

「もちろんです。 一年分は三二四万円として残った年数分のお支払いをいただければ、お嬢さまはその段階で自由になることができます。おそらくお嬢さまは自由気ままに育ってきたのでしょうから、ちょっと辛いかもしれませんがこういったところでメイドの経験をされるのも人生にとっては勉強になるんじゃないでしょうか……」

「ありがとうございます。お心遣い感謝します。それではそういうふうにさせていただいてよろしいでしょうか?」

「ええ、そうしていただけたら義父も喜ぶと思います」

こうしたやりとりの後、亜美は信子には会わずに三二四〇万円を受け取ってホテルまで送ってもらった。

それを知らされた信子は、驚いて涙を流したがどうすることもできず、二人の先輩のメイドたちに小柄れるようにメイド服に着替えさせられ、人生で初の屈辱的な服装に再び涙して義母を恨んだ。

その日から信子の辛い日々が始まった。

聖子は二人の先輩のメイドに、信子の正体を暴露した。

理事長の娘であることをバックに、多くの女子高生たちが、いかにいわれのない暴力に苦しんでいたかと言うことを詳細に説明し、二人の憎悪をあおった。

四十歳前のメイド、洋子は、さほど興味を示さなかったが、まだ二十代の明日香は、高校時代にひどい虐めにあい、高校を中退後、しばらくは自宅から出ることができなかったのだが、二十歳を過ぎて、聖子の世話になり、ここで働くようになった娘で、信子の正体を知って憎しみの炎が燃え上がってしまった。

「相手は違うけど、同じようなことをしていたのよ。あなたを苦しめたあいつと同じ人種なのよ。あいつみたいな屑がどんな報いを受けるべきかは、あなたが決めればいい。遠慮しなくてもいいわよ。たっぷり痛い思いをさせればいいから、責任をもって躾けてちょうだい」

聖子は明日香の心の片隅に残っている苦悩を何とかしてあげたいと思っていた。これはかわいい姪の復讐というだけでなく、明日香に取ってもそのしこりを振り払ういいチャンス、そう考えた聖子は彼女に明日香を委(ゆだ)ねた。

それを聞いて明日香は、内心、うれしくて仕方がなかった。

何も出来ない信子は、先輩のメイドたちから命令をされるたびに叱責され、特に明日香からは厳しい体罰を受け、一つずつ仕事を覚えていくしかなかった。

疲れ果てている彼女は、夜には洋子からマッサージを強要され、朝、寝過ごしては明日香からお尻を叩かれ、正座をさせられ、痛みに耐えられずごそごそ動いてはまた叩かれ、涙を流さずに過ごす日はなかった。

明日香は、高校時代に自分が受けた屈辱と苦悩をそのまま信子に返してやろうと思っていた。

明日香から受ける体罰を覗けば、彼女が特に辛いのは朝食であった。

家の者達が食事を済ませた後から、メイドの食事になるのだが、お嬢様の食事にいつも時間がかかるので、メイドの食事も必然的に遅くなった。

無駄話ばかりして、なかなか食事を終えないお嬢様をにらみながら(早く食べろ、早く食べろ)と念じていたが、一向に効果はなかった。

やっとお嬢様の食事が終わっても、先に先輩たち二人が食べるお世話をして、彼女が食事にありつけるのは、九時を過ぎることが珍しくなかった。

朝六時から準備にとりかかり、三時間以上空腹に耐えながら立ったまま待たなければならない苦痛は、彼女にとっては地獄にも落ちたような思いであった。

明日香から、毎日のように虐(いじ)めを受けながらビクビクして日々を過ごしていた彼女だったが、自分の不運を嘆く事があっても、未だに自分の罪を悔いる事はなかった。

一方、ホテルに着いた佐久間亜美は、 三〇〇〇万円あれば何かできるはず、そう思って安堵していた。

(とりあえず今日はゆっくりと一日休もう。そして明日から本気で考えよう)そう思った彼女は入浴を済ませ、ベッドの上でしばらく横になっていた。

(まだ、天は私を見捨ててはいない)そう思った時であった。

トントン、部屋のドアがノックされた。

「お客様、先ほどフロントに男性の方が来られまして支援をさせていただきたいのでこの手紙を渡してほしいと頼まれたのですが……」

支援と聞いた亜美は目を輝かせて大急ぎでドアを開けた。

その瞬間二人の男性と一人の女性が部屋に押し込んできて、 亜美は口を塞がれ、縛られてしまった。

突然のことに、何が何だか分からず、亜美は目をぱちくりさせて声を出そうとするが口はガムテープでふさがれものが言えない。

「旦那はどこにいるの?」黒いスーツに身を包んだ女性が亜美を冷たく睨み付けながら尋ねた。

亜美は恐怖のあまり懸命に頭を振って、知らないと言う意思表示をした。

その時一人の男がケースの中から三二〇〇万円を見つけた。

「お嬢さん、 三二〇〇万円ありますよ……」

「旦那はどこに行ったのよ?」

目を見開いて懸命に頭を振る彼女に、

「大きな声出したら許さないよ」そう言うと力任せに彼女の左の頬を殴った。《ばしーん》と言う音とともに、「うぐー」という声にならないうめき声が低く漏れた。

「いいかい、これを外してあげるけど大きな声を出したら許さないよ、わかっているね」

亜美は涙で濡れた瞳を懸命に見開いて何度も小さく頷いた。

「どうしてこんなひどいことするんですか!」

「ひどいのはお前の旦那だよ、 一億円借りてトンずらしてしまって…… どこにいるのよっ!」

この女性はまだ三〇歳前後なのだろうが、目は血走っていてその表情からは冷酷さがにじみ出ていた。

「ほんとに知らないんです。あの人は一人で逃げてしまって、家には帰ってこなかったんです」亜美も必死だった。

「この三〇〇〇万円をもらってもまだ七〇〇〇万円も足りないのよ、どうしてくれるのよっ!」

「私は知りません、その三〇〇〇万円は私が借りてきたものです。主人とは関係ありません」すがるように訴えたが

「何を言ってるの、そんな都合のいい話が通るわけないでしょ、足らずはあんたに稼いでもらうわよ」

「お嬢さん、こんな四〇過ぎのババアじゃどこも引き取ってくれないでしょう」

「メイドぐらいはできるでしょっ、少しでも回収しないと…」

「そうですね」

( どうしてこんなことになったの…… 

 私は貧しさの中から這い上がっただけなのに……

騙される方が悪いんじゃないのっ……!

私だってもっといい所に生まれていたら、こんな生き方はしなくても良かったのに……

好きであんな所に生まれたんじゃないのに、

ただ一生懸命生きただけなのに……

それが罪なの……

もしそうだとしたら、私はどこまで堕ちるの……  

地の果てまで堕ちて行くの……? )

罪には目を瞑(つぶ)って、ただ前を向いて走り続けた彼女が、初めて思う人間らしい苦悩であった。

一方、信子は辛い日々を送ってはいたが、それでもひと月も過ぎた頃にはメイドとしての生活にも慣れ、知らない間に覚悟に似た思いも生まれ笑顔がこぼれることもあった。

この時を待っていた聖子は、ある日曜日の朝、姪の亜子に信子がメイドをしていることを伝え、家に来るように促したが、亜子の思いは複雑であった。

亜子はこの地で新たな一歩を踏み出してからまだ三カ月にもならない。

未だに悔しくてやり場のない思いに、夜、ふと目が覚めることもあるし、思いだせば竹刀で殴られている自分の哀れな姿は容易に瞼の裏に浮かべることができる。

 しかし、自らも暴力を持って暴力を押さえつけようとしていたことは事実。 

このまま何もなく時が過ぎれば、過去の辛い思いでの一つとして、恐らくいつの日にか処理することはできるのだろう。

現実にこの三カ月に満たない期間でも、その思いは徐々には薄れていた。

ところが、叔母からの話が、彼女の復讐心に灯を付けてしまった。

人としてそれはあってはいけないこと…… 彼女の理性が懸命に訴えて来るが、今日一日だけ、一日ぐらい、あいつを罵倒して、あざ笑ってやってもいいだろう……

彼女はこの地で芽生え始めた理性と、復讐に燃える本能の狭間で思い悩んだが、本能に打ち勝つことができず、とりあえず見てみよう、あいつのメイド姿を…… そう思って、午後になると、叔母の家へ足を運んだ。

客が来たことを聞いた信子は、先輩に命じられるままに、レモンティーを用意し客室へ向かったが、そこで亜子を見た彼女は固まってしまった。

「何をしているの? 早くしなさいっ!」いつになく叔母の言葉が厳しい。

「はい、奥様……」信子ははっとして返事をするとフロアーに膝をつき、震える手でカチャカチャと耳障りな音を立てながら、二つのカップをテーブルに並べた。

「何でそんなにカチャカチャ言わすの、お茶もまともに出せないの?」

「奥様、申し訳ありません……」信子は今にも泣き出しそうに、か細い声で震えながら懸命に謝った。

「全然躾がなってないわね、もっと厳しくするように言わなくっちゃ、亜子ちゃん、ごめんね、無作法なメイドで……」

そこまで無言で信子を見ていた亜子は、かつては女王様のように振る舞っていた彼女が、メイド服を身に着け、俯いたままこんなに怯えている姿を目の当たりにして腹立たしさよりも哀れさが沸き上がってくるのをどうすることもできなかった。

「亜子ちゃん、うちで生活しない?」聖子が楽しそうに誘った。

「えっ」

「この娘をあなたの専属にするから、お世話してもらったら?」

それを聞いた信子の瞼から涙が流れ始めた。

「なにを泣いているのっ! 私の大事な姪の世話をするのが嫌なの!」

「すいません」信子の精一杯であった。

「自分が四カ月の間、この子に何をしたのか、よーく思いだしてごらんなさい! 私は絶対に許さないわよ、覚悟しておきなさいよっ!」

大好きな叔母の今までに見たことのない形相に驚いた亜子は

「叔母さん、ありがとう。でも…… もういいです。この人のこんな姿見て、こんなに怯えていて、哀れで仕方ない。それに、ここで復讐みたいなことをしたら、私もこの子と一緒になってしまう。私は罪を創りたくないし、叔母さんにも創って欲しくない。だから、もうここまででいいです」

「亜子ちゃん」叔母は知らない間に成長した姪に瞼を濡らし感動していた。

「信子さん、もう下がって下さい」亜子が優しく微笑んだ。

「すいませんでした。ほんとにすいませんでした」彼女は深々と頭を下げると肩を落として下がっていった。

 彼女が人生で初めて自らの行いを悔いた日だったのかもしれない。

「あの子はね、私以外にもたくさんの人を苦しめていたの、当時の友達がメールで色々教えてくれていたんだけど、知らない間にグループは十三人になっていたんだって…… ほとんどの人が無理やり入らされたらしいの。それだけの人を苦しめたんだから、罰が当たっても仕方ないよね」

「そうねー」

「私も、あの頃は復讐することばかり考えていたの…… だけどここに来て、新しい一歩を踏み出してみたら、色んなことが違う角度から見ることができるようになって、ここに来る途中、あの子のことも考えてみたの……」

「……」

「私は、両親もいるし、叔母さんや叔父さんも大事にしてくれて、とても幸せだけど……」

「ありがとう」

「わたしこそ『ありがとう』よ、でもね、あの子の継母は、あの子があんなことをしていても叱るどころか、それをかばっていたのよ、校長だって母親の腰ぎんちゃくだからあの子には何も言えなかったの。父親だって、最後は実の娘を置いて逃げたらしいわよ。あの子は誰からも愛されたことがないのよ。私は両親だけでなく、叔母さんからもこんなに愛されている」

「亜子ちゃん……」

「あんなに好き放題して生きてきたあの子が、周りには誰もいなくなって一人ぼっちになって、今までに経験したことのない、考えてもいなかった現実に直面して、私を見たとたんにあんなに怯えて…… でも一瞬はいい気味だって思ったの、しばらくこのまま睨み付けてやろうか、そのくらいなら許されるに違いないって…… だけど今までに見たことのない叔母さんの様子を見て、『だめだ』って思ったの、私の悔しさが叔母さんまで巻き込んでしまった、って思ったの、ここまでにしておかないと、私だけでなく大好きな叔母さんにまで罪を犯させてしまうって思ったの…… 叔母さんのおかげです。ありがとう」

「亜子ちゃん、あなたは大きくなったわね…… 叔母さんもうれしい!」

彼女は涙をにじませながらやさしく微笑んだ。 

聖子は、亜子に救われた思いだった。まだ一八歳の姪に教えられたような気がしていた。

(義父も、過去に何かあったのだろう…… だから一億円もの大金を亜美に渡してやろうとしたのだろう。なのに私は憎しみに任せて、とんでもないことをしてしまった!)

その後、彼女は懸命に亜美を探したが見つからなかった。

せめて、信子だけでも自由にしてやらなければ、と思い

「信子さん、もう自由にしてください。あなたのお義母さんに渡したお金はもう結構よ。だからあなたは好きにしてくれたらいいから、どこでも行きたいところへ行ってちょうだい。お義母さんにも渡したいものがあって探しているんだけどどうしても見つからないの…… 」

「でも……」

「いいのよ、それにあなたのお義母さんはあなたを捨てたのではないと思うわよ。出て行くときに、途中でもお金さえ返せば娘は自由にしてくれるのかって聞いていたから、あのお金を元手に何か商売でもして、早くあなたを迎えに来たいって考えていたのだと思うわよ」

「あの、とてもありがたいのですが、自由になっても私は行くところがありません。このままおいていただくわけにはいかないでしょうか?」

「えっ、誰も頼る人がいないの?」

「はい……」

「そうなの、じゃあ、このままここで働いてちょうだい、そのかわりにお給料はちゃんと払うから、それに自由なんだから、止めたくなったらいつでも止めていいのよ」

「ありがとうございます。亜子さんにあんなひどいことしたのに、ほんとにありがとうございます」

その後、三カ月が過ぎた頃、聖子は隣町の料亭で亜美が働いているという噂を耳にして店を訪ねた。

サラ金によってここへ連れて来られた亜美が五年間の奉公で一五〇〇万円を前払いしてもらっていることを知った聖子は、その支払いを済ませ、義父からだと告げて五〇〇〇万円を彼女に持たせた。

その翌日、亜美と信子はそのお金を持って田辺の家を出て行ったが、その後の二人を知る者は誰もいない。

父の汚名

 年が変わり、奈々子は高校三年生の秋を迎えていた。彼女の大学も決まり、松島の家は静かに時間が流れていた。

 ここまで懸命に走り続けてきた明子の不安はほとんど解消され、幸せそうなたか子の表情を見るたびに、彼女はかつて「会長を頼みます」そう言ってこの世を去った本社社長の青野のことを思いだしていた。

 何故か、無性に墓前に報告したくなった彼女が、誰にも行き先を告げず、一時間ほどかけて彼のお墓に出向いたのは秋晴れの穏やかな日であった。

 全てが順調に進んでいることを墓前に報告した彼女は、晴れやかな思いで帰途に着いたのだが、立ち寄ったカフェで見知らぬ男から声をかけられた。

「初めまして、衆議院議員 武山正の秘書をいたしております藤本と申します。高島支配人にはお初にお目にかかります。ぜひご相談にのっていただきたいことがありまして、一度お時間をいただけないでしょうか?」

 明子は《衆議院議員武山正》と聞いて、一瞬驚いたが、冷静を装って顔を上げると

「どういったご用件でしょうか?」そう言って見つめた秘書の顔には見覚えがあった。

「ここでは何ですので、一度席を設けさせていただきたいのですが……」

「いいえ、私はそういったところへは出向きませんので、松島の家へお越しください。これが私の電話番号です」

 いつもであれば、このようなところでの話については「また機会があれば……」と言ってあしらうのであるが【衆議院議員武山正】と聞いて彼女には二十年前の父の無念が蘇(よみがえ)ってきた。

 明子がまだ十歳の頃、父親の長田芳樹は【衆議院議員武山正】の第一秘書をしていたのだが、建設業者からの収賄疑惑をかけられたまま命を絶ってしまった。

 

 報道によればその概要は次のとおりであった。

衆議院議員武山正の地元では、国の大型工事の受注を巡って大手ゼネコンを入札に参加させるかどうかの議論がなされていた。

この工事はもともと地域活性化対策として補正予算が組まれたもので、地元の最大手、青井建設は大手ゼネコンを参画させないため、【衆議院議員武山正】に働きかけていた。

武山側でそれを仕切っていたのが、明子の父、ということになっていた。

だが父はそのことを全く知らず、武山正も知らないと明言していた。

 この話は、結局大手に仕事を取られ、腹を立てた青井建設の社長が愚痴をこぼしたことから、マスコミにリークされ警察介入ということになったのであった。

青井建設とのやり取りの資料の一部が父親のパソコンに残っていたこと、金を受け取りに来ていた人間は、第一秘書の使いと名乗っていたこと、受け渡しと同時に、第一秘書からお礼の電話が入っていたこと等、状況は父親にふりであったが、警察は事情聴取を終え、あまりに形が整いすぎていること、細工があまりにもお粗末であること等から、父親は白と思われていた。

むしろ怪しいのは女遊びが激しくギャンブル好きの第二秘書ではないかと考えていた。

ところがある日、父親が毒物を摂取し、自ら命を絶ってしまった。

その毒物は、父親のパソコンから裏サイトで取引され購入されたもので、そのパソコンには父の遺書も残されていた。

宅配業者からその毒物と思われる物品を受け取ったのが第二秘書、藤本健であったことから、彼への疑いは色濃くなったが、彼はそれの中身は知らないし、受け取った後に長田の机の上に置いたと証言しており、疑わしくはあったが何一つとして証拠はなく、『早く始末をつけろ』という上からの指示で、長田芳樹の死は自殺として処理されてしまった。

その結果、青井建設からの収賄は明確にはならなかったが、世論としては父親の単独での犯行というイメージが強く残ってしまった。

当時はマスコミに追いかけられ、家に帰ることもできず、母親の実家に身を寄せた明子親子は、母方の高島性を名乗り、影におびえながら日々を過ごした。

そんな中でただ一人、この事件を追い続けているフリーの記者がいた。

この記者、中村幸一は、若い頃、大きなミスを犯したところを長田に救ってもらったことがあり、それ以後彼を《師匠》と慕い、長田も義理堅いこの若者を気に入りとてもかわいがっていた。

その中村からすれば、この長田に押し付けられた収賄容疑はあり得ない話であったし、何よりも長田が家族を残して自ら命を絶つこと等は絶対に信じられないことであった。

彼は陰から明子親子を見守り続けたが、経済力のない彼には何もすることができず、何の恩返しもできない自分が情けなくて、それでもせめて長田芳樹の汚名だけは何とかして晴らしたい、そんな思いだけは持ち続けていた。

久しぶりに秘書の藤本を尾行していた中村は、彼が明子に接触したことに驚き、彼が去った後、彼女に近づいた。

「お久しぶりです、と言っても覚えていないですか?」中村が微笑むと、どこか懐かしい笑顔に、明子は懸命に記憶をたどったが思いだせない。

「……」

「もう二〇年以上になりますからね、あなたはまだ小学生だった……」

(私の幼い頃を知っている人がいるはずないのに… 誰?)

「覚えていないですよね?」

「えっ、幸一さん?」自信なさそうに彼女が尋ねると

「えっ、名前が出てきましたか? 光栄です」

彼は嬉しそうに微笑んだ。

「すごい、ほんとに二十年ぶりですね……」

明子も驚いていた。

「ご無沙汰してしまいまして、お母様が亡くなられたのも後から知りまして、申し訳ありませんでした」

「とんでもないです…… でもよくわかりましたねー」

「そりゃ、二十年間ストーカーしていましたから……」

「えっー、ずっと見守っていてくれたんですか?」

「恥ずかしながら、見ていただけです。お母様が懸命に働いていても、私は何もしてあげられなかった。お父上の墓前に誓ったのに、二十年経っても何の収穫もありません。顔を出せた義理ではないのですが、藤本と接触されたのを見まして、心配になりました」

「ずっーと、調べて下さっているんですか?」

「いくらかは食い扶持も稼いでいますから、できる範囲でということで理解して下さい。それに対した成果も得られていません」

「ほんとに申し訳ないです。どうかご自分の生活を大事になさって下さい」

「ありがとうございます。あの藤本が限りなく黒に近いのに、腹立たしい限りです。先日からふとしたことが気になって、武山議員に面会を申し入れているのですが、あの藤本に邪魔されて会うことができません。呪い殺してやりたいですよ」

「そんな…… 何を確認したいんですか?」

「いえ、あの事件の後、議員にお会いして、議員の思いを伺ったことがあったんですよ。その時、議員は『長田がそんなことするはずがない』って言いきったんですよ」

「そうなんですか……」

「それだったら遺族の今後は面倒見るのかって聞いたら、『人並みの生活ができるように支援はする』って言ったんですよ」

「だけど、それが実行されたのかどうか確認したくて…… それにお母様があんなに働いていたことを思うと、口から出まかせだったのかとも思うんですよ。あの議員については、今一つよくわからない所があって…… 何かその辺りが突破口にならないかと思っていたんです」

「それは絶対にいただいていないですよ…… 自信をもって言えます」

「やはりそうですよね…… 口先だけだったんですかね?」

「幸一さん、でももし、彼が指示していたのに、それが実行されていなかったとしたら、それは誰かが着服していたことになりますよね……」

「確かに、おっしゃる通りですね」

「私が調べてみます」

「お嬢さん、それは危険です。いまやあなたは松島にとっては欠かせない人、もしあなたに何かあれば、もうあなた一人の問題では済まなくなる。もっと慎重に検証しましょう」

「大丈夫です。まず幹事長の所へ行ってみます」

「お嬢さん、一人じゃだめですよ、必ず誰かを連れて……」

「ありがとうございます」

その翌日、明子は幹事長にアポイントを取った。

松嶋の支配人とあっては何ともしがたく、第一秘書は、最優先で調整を図り、その夜の八時に議員会館近くの会議室で会うことを約束した。

「お久しぶりです」

「いつぞやは総理の秘書が失礼をしたな」

「とんでもないです。幹事長に入っていただいたので松島も怒りは収まったようで何よりでした」

「それで、今日はどうしたのかね?」

「実は武山議員の第一秘書が接触してきました。その内に会うことになると思うのですが、少し調べさせていただいて気になることがございます」

「何かね?」

「二十年近く前に、当時の秘書が収賄の容疑をかけられて亡くなっていますよね」

「昔の話だなー、もう二十年か…… それがどうかしたのか?」

「当時、議員はその秘書の方は決してそのようなことをする人間ではないと明言されている記事が気になりまして……」

「うん、それがおかしいのか?」

「いえ、実は松島がふとしたことから、そのお嬢さんと懇意にしている記者から話を聞いていまして、議員は信じていると明言しておきながら、その後、遺族に対しては全くあってもいないし、気にも留めていない… その母親は朝から晩まで働き続けて、苦しい生活をしていたそうです。松嶋は、人として問題があると憤っておりまして、これが一年ほど前の話なのですが、もしそれが事実であれば、今回の支援はお断りせざるを得ないと考えております。一年ほど前と申しましても松島の頭の中にはかなり明確に残っているのではないかと心配しています。その場合、後から幹事長が動かれても難しいと思いますので、事前にそのことだけはご報告しておくべきかと考えましてお邪魔した次第でございます」

「その話はおかしいぞ、わしも当時、長田君の遺族の面倒はちゃんと見るようにと念を押しているし、彼がそんなことをないがしろにする人間でないことは私が一番よく知っている」

「お名前まで記憶されているのですか?」

「そりゃーね、当時は大変だったし、私も彼のことをよく知っていたが、決してそんなことをする人間でないことはよくわかっていた。ただ、当時の民自党は、内閣の支持率も低く、バタバタしていたから、あまり長引かせたくはなかったのだろうし、もし大きな事件に発展でもしたら命取りになりそうな危険もあったから、当時の幹事長の指示で幕引きを急いだのだろう」

「でも、その結果、秘書の方は汚名をきたままになっていますよね」

「そうなんだ、だからこそ、遺族への責任は免れない。当時はね、彼のためにとことんやって欲しかったよ、だけどね、私も当時は長いものに巻かれてしまったんだよ、ほんとに申し訳ないと思っている。ちょっと待ってくれるかね?」

「……」

「武山君に電話してくれ!」

「はい」

『武山君、二十年前の長田君の事件なんだが、君は彼が亡くなった後、遺族に生活費を渡していたのは間違いないか?』

『幹事長、ちゃんとしましたよ、娘さんが大学を出るまで支援しましたよ。お礼状だっていただいています。何でしたらお見せしましょうか?』

『いや、それだけ聞くことができれば何も問題はない』

「聞いてのとおりだよ。彼が人生の中で一番大事にしている部分だよ」

「そうですか……」

しばらく沈黙があったが、

「君は長田君のお嬢さんかね?」

「幹事長……」

「ほんとに申し訳なかったと思っている。長田君が汚名を晴らせないことももちろんだが、武山君の支援が君たちに届いていなかったのはとんでもないことだ。大変なご苦労をなさったんだろう。お詫びのしようがない」

幹事長は目を赤くして深々と頭を下げた。

「幹事長、止めて下さい! 幹事長が頭をさげられるようなことではないです。それに、黙っていてすいませんでした。私はただ……」

「わかるよ、よくわかる。何とか収賄の汚名だけでも晴らしてあげたいのだが……」

「ありがとうございます」

「とりあえず、武山君に会ってみるかね? 彼は君が思っている以上に誠実な人間だよ」

「はい、是非そうさせて下さい」

「この件では、君の思いが最優先だよ、このことに関しては私も民自党の体裁は考えない。だから気がすむようにしてくれ!」

その時だった。

「幹事長、武山議員です」彼がやって来た。

「入れてもいいかね?」

「……」明子は静かに頷いた。

「失礼します。あっ、お客様でしたか?」

「長田君の娘さんだ!」

「えっ、明子ちゃんなのか?」彼は信じられないといった表情で、目を見開いたまま彼女を覗き込んだ。

「初めまして、現在は母方の性を名乗っています。高島明子と申します」

「高島さんて、松島グループの?」

「そうだよ、松島の支配人だ」

「立派になって、お父さんも喜んでいるだろう」

「いいえ、まだ喜んではいないと思います。汚名を着せられたままでは、まだ成仏できていないと思っています」

「ほんとに申し訳なかったです。彼が自ら命を絶つなんて信じられなかった。でも、言い訳になってしまうけど、どんなに話しても警察の決定は覆らなかった。本当に申し訳なかったです」

「確認させていただきたいことがあります」

「先ほどの件ですよね、もしあなた方に生活費が届いていなかったのであれば、恐らく藤本しか考えられない。これを見ていただきたい。明細です。このようにお礼の手紙もいただいています」

彼は数通の手紙を差し出したが、それは決して母の字ではなかった。

「私は決して言い逃れをするつもりはありません。藤本に全てを任せていた私の責任です。当時、警察は藤本を疑っていましたが、私にすればそれもあり得ないことで、あなたのお父上を陥れた犯人は近いところにはいても、決して内部の人間だとは思わなかった。ただ一人、記者の中に食らいついて来る人がいて、長田君がかわいがっていた若者で、彼も藤本を疑っていた。彼は『何故、遺族のもとへ足を運ばないんだ!』と詰め寄って来たが、当時はマスコミの追及が激しくて、君の母上からも、来ないで欲しいと言われて……」

「それは長田君の奥さんから直接言われたのかね?」

「いいえ、藤本から聞いたと思います」

「生活費は、もちろん現金で払っていたんだろうな!」

「はい、藤本が手渡していたはずです」

「限りなく黒に近いな……」

「未だに信じられません、しばらくお時間をいただけないでしょうか?」

「武山議員、私は援助のなかったことを責めているのではありません。ただ、何も手掛かりがなかった中で、ここをきっかけにして、切り崩していくことができるかもしれない、そう思っているだけなんです。しかし、真実が解っても、民自党や、次期幹事長候補と言われる武山議員のお立場を考えれば、決して公にはできないと思っています。それでも、もし犯人がはっきりするのであれば、せめてその人間だけは社会的に葬って、父の墓前に報告したい、そう思っています」

「支配人、そこまで考えていただいてほんとに申し訳ない。武山君、取り敢えず、藤本に正してみるしかないのか?」

「それしかないと思います」

その翌日、地元から事務所へ帰って来た藤本は、武山が長田の娘に会ったということを聞くと、

「もう時効ですよ、先生の推察のとおりです。でもこんなこと、公にできませんよ。わかっているんですか?」

彼は開き直った。

「君が長田君を殺したのか?」

「先生、殺人に時効はないんですよ、そんなこと、仮にやっていたとして、やりましたっていう馬鹿がいますか?」

「もう君の顔は見たくない、止めてくれ」

「いいんですか? 未だに嗅ぎまわっている記者だっているんですよ、私を止めさせるのであれば、私にだって考えがありますよ」

「君は何年私に仕えているんだ、私がそんなことに屈すると思うのか!」

「次期幹事長ですよ、屈するでしょう」彼は意味ありげに薄ら笑いを浮かべ言葉を吐き捨てた。

その翌日、幹事長と、明子の前で

「着服していたのは藤本に間違いありません、長田君を殺害したことは時効がないからと言って認めませんでしたが彼に間違いありません」

「やはりそうでしたか……」

「私は議員である前に人間失格です、あなたの母上が亡くなられていることさえ知らなかった。お詫びのしようがありません」

「後は、彼の処分を考えよう、下手すれば彼だって牙を向いてくるだろう」

「そうですね、後は先生方にご迷惑が掛からないようにしていただければ……」

「全て公表します。 もう辞職願も出してきました」

「先生!」

「やはりそうなるか?」

「幹事長…… 」明子が心配そうに見つめた。

「こういう人間なんだよ、元来なら彼を止めるところだが、どうにもならないだろう、あなた方への罪悪感から、彼はもう立っていられない状況だろう。欲望に負けることなく自分自身を見つめることのできる人間なんだよ……」

その翌日、

「藤本君、数日後には記者会見で全てを明らかにするつもりだ。君が言うように殺人罪は時効がない。君も覚悟しておくんだな!」

「あなたは次の幹事長候補ですよ、みすみすそのチャンスを無駄にするんですか? そんな馬鹿なことはしないでしょっ。その手には載りませんよ!」

「君がそこまで愚かだとは思わなかったよ、私は昨日辞表を提出してきたよ」

「何ですって!」

「君はうわべだけだったんだな、何年も傍にいながら私という人間が解っていないようだ。人の道を踏み外した者に、国民の代表が務まるわけがない。長田君の遺族に辛い思いをさせてしまったのは、全てを君に任せた私の責任だ。私には辞表を出して、長田君の汚名を晴らし、彼を葬った者に報いをうけさせることでしか、彼の遺族に応える道はないと考えている」

「馬鹿な、何の得があるんですか!」

「君にはわからないだろう、いいんだ、君に理解してもらおうとは思わない」

「……」

「その内に再捜査も始まるはずだ、警察が世論に負けるまで私は絶対に緩めない」

数日後、彼は記者会見で全てを明らかにし、収賄に関わっていない長田芳樹が自殺をするはずがないと付け加えた。

このことによって長田芳樹の汚名は払しょくされたが、民自党への批判は想像を絶するものがあった。

それを予期していた、明子は中村幸一に独占記事を依頼していた。

彼は、この解明に党が受けるだろう批判をも顧みず、懸命に尽力してくれた幹事長のこと、そして潔く責任を取った武山のことを褒めたたえ、被害者である明子がいかに二人に感謝しているかということを訴え、記事には墓前に報告する明子の写真も掲載されていた。

彼は最後にこう締めくくった。

この事件を二十年追ってきて、ようやく真実にたどり着いた。

当時、長田さんの遺族は、マスコミに追いかけられ周囲の目にさらされ、苦悩の日々を送って来た。

確かに藤本のような秘書を雇っていた武山議員に責任がないとは言えない。民自党を支える者として幹事長の責任もあるのだろう。

ただ、我々は二十年も前のこの事件に真摯に向き合い、遺族のやり場のない怒りから逃げることなく全容の解明に尽力したこの二人を誰が責めることができるのか、人のあらを探し、責めることは容易だが、このような議員に会ったのは初めてである。信頼できる国民の代表とは、まさにこのような人を言うのではないか」

 

この記事の効果は絶大であった。世論は二人を称賛し、矛先は全て藤本に向いてしまい、彼は姿を消してしまった。

警察もようやく重い腰を上げて再捜査に踏み出した。

明子から報告を受けたたか子は、明子の長年背負ってきた思いが、洗い流されていくのを感じて、彼女もこれで恋愛をはじめることができるかもしれない、窓をたたく激しい雨音に耳を澄ませ、そう思って微笑んだ。

                            完

最後までお付き合いをいただいてありがとうございました。

感想でも、批判でも、何でも構いませんので、一言いただければ嬉しいです。

作者はその一言がいただきたくて物語を書き続けています。

 面白かった、どうでもよかった、まあまあだったetc……  どんな一言でも構いません。

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