あの女が憎い
秀人の帰郷
9月で24歳になった中村秀人はその年の暮、久しぶりに故郷の静岡に向かっていた。
高校を卒業後、プロ野球、東京スターズへ入団し、5年目のシーズン終了間際に自由契約選手となった彼は、6年目の今年はバッティング投手を勤めたが、そろそろけじめをつけたいという思いが生まれ育った故郷へ足を向けさせた。
新幹線の中で頭に浮かんだのは、いつも傍にいてくれた彩の笑顔だった。
中学、高校と野球部のマネージャーだった彼女は、チームのため、そして秀人のため懸命に尽くしてくれた人だった。
彩にはメール入れとくか、そう思った彼は
『今日、そっちに帰る、8時過ぎになるけど、天丼食えるか?』
と打ち込むと、直ぐに
『了解、気を付けて!』と返ってきた。
( 天丼食いたくてメールしてきたのか…… 馬鹿たれ!)
それでも斎藤彩は久しぶりのメールがうれしかった。
直ぐに天丼屋、『丼の店』を営む父親に電話を入れる。
『父さん、秀人が8時過ぎに天丼食いに来るって!』
少し弾んだ娘の声に
『帰ってくるのか?』と父親が聞き返す。
『らしいよ……』
『わかった、待っているよ!』
時刻表を調べると、おそらく8時15分着、そう思った彩は改札口の外で待っていた。
キキキキッーっというブレーキ音が、高架下の改札口に電車の到着を知らせる。
( 何年ぶり? 成人式の時に見て以来かー、4年ぐらいは経っているのか…… )
そんなことを考えながら、胸の高鳴りを抑えることのできない彩は、大きな瞳を見開いて、改札口を見つめながら、昔を思いだしていた。
思いは届かない
話は6年前に遡る。
高校最後の夏、秀人は140km/hのストレートと高速スライダーを武器に県大会を制し甲子園初出場を決めた。
人口1万人程度の小さなこの町は、お祭り騒ぎになってしまい、試合の当日、町は閑散とし、皆が甲子園にくぎ付けになっていた。
その甲子園での初戦は、2対1で接戦を制したが、2回戦は春の準優勝校の前に1対0で惜しくも敗れてしまった。
それでも、中村秀人の名前は一気に全国に知れ渡り、学校へはプロのスカウトが何人か挨拶にもやって来た。
彩は中学の時から秀人のために何でもやって来たが、決して見返りを求めることはしなかった。
最初は、この優柔不断男は私が動かないと何もできない…… ただそんな思いだった。
しかし、甲子園へ行って人気者になった彼が、同じ高校の筋木亜美と付き合うようになって、彼女は初めて自分の気持ちに気がついた。
今までずっと秀人の面倒を見てきたのは自分だったが、それはすべて野球という部活動に絡んでいた。それでも秀人のそばにもし女性がいなければ、部活が終わってからも彩はごく自然に彼のそばにいて、彼の今後の人生に関わって行くことができたのだろう。
彩は高校生活、最後の半年はそんな風に流れて行くのだろうと勝手に思っていた。
しかし、秀人に彼女ができた今、野球が終わってしまうと、彩が秀人のためにできることはもう何もなかった。
二人が楽しそうにしているのを見るたびに、彼女はそのことを思い知らされ、胸が苦しくなり、微笑んで二人を見ることはできなかった。
( 私は、最低! 秀人の幸せを喜んであげることができないし、亜美に嫉妬している。どうしてあんな女がいいの…… かわいいだけじゃないの! )
彩はそんなことを思ってしまう自分が許せなかった。
その苦しい胸の内を振り払うかのように、彼女は進学に向けて勉強に取り組んだが、ふと一息ついた時に、脳裏をかすめるのはやはり二人の笑顔であった。
深夜2時、眠気を覚ますために洗面所で顔を洗い、鏡に映った自らの上半身を見つめ、知らない間に亜美と比べていた。
顔は日焼けして真っ黒、胸はほんのかすかに膨らんでいるだけ、亜美の福よかさにはかなわない。
( 彼女に勝るのは成績ぐらい、もし自分が男だったら、私だって亜美がそばにいる方がいいって思うかもしれない。何を期待していたの? 馬鹿みたい! もう止めよう、何か、だんだん嫌な女になっていく…… )
秋、ドラフト会議が始まると、町は秀人の話で盛り上がり、学校ではテレビの前に多くの教師や、生徒、地元紙の報道関係者も詰め掛け、ドラフト会議の様子を見守っていた。
皆が、もう指名はないのだろうかと暗い空気が流れ始め、6巡目も終わろうかとしていた時、彼が東京スターズから6位指名されると、学校中がお祭り騒ぎになってしまった。
その時も、彼の傍らに亜美はいたが、彩の姿はなかった。
結局、彼は契約金1000万円、年俸600万円というほぼ最低の条件ではあったが契約に応じ、記者に囲まれ、フラッシュを浴び、輝いている彼の後ろで微笑みながらその様子を見ていたのはやはり筋木亜美だった。
それでも忘れかけた頃に、秀人からメールが届いた。
『彼女ができたんだから、私にメールするのは止めなさい』と言っても、月に1度ぐらいは必ず、近況報告が届いた。
こいつはバカなのか、と思いながらも、彩は彼からのメールを読むのは楽しかった。
卒業式の日、野球部のキャプテンだった高田雄一に誘われ、彩はカフェに居た。彼は彩を一人にはしたくなかった。
「彩、ありがとうな、甲子園へ行くことができたのはお前のおかげだよ」
「そんなことないよ、私なんて、何の役にも立たなかった。雄一がちゃんとチームまとめたからだよ」
そう言いながらも彼女の微笑みはどこか寂しそうだった。
「秀人も、その内に何が大事なのかわかるよ、だけど今はその流れじゃない、彩も辛いだろうけど、もし待てるんだったら、待ってやってくれないか?」
「よしてよ、私は……」そう言いながら、待っているのかもしれない、ふとそう思った彼女はそこで言葉を留めた。
「変なこと言ってごめん。彩のこれからの恋愛に水を差すつもりはないよ、だからいい人が現れたら恋愛すればいい。だけど、もし、彼が一人になってさまよい始めた時に、彩の中にまだあいつが少しでも生きていたら、その時は、また面倒見てやってくれないか……」
生真面目なこの男の思いが純粋に伝わってくる。
「雄一はいつまでも義理堅いね、小学校の時の話なんでしょ。一人ぼっちだったあんたに秀人が話しかけてくれたのって……」
「はははっ、そうだけど、あいつとの出会いは大事にしてきたし、これかも大事にしたいんだ」
「なんか雄一って、大人だね」彼女が優しく微笑む。
「えっ、そうか?」
「私たちとは見ている世界が違うような気がする……」
一方、亜美と一緒にいながらもそわそわして誰かを探している秀人に、彼女は少しムカついていた。
( 彩を探しているんだ! 私がそばにいるのに……)
秀人は彩に対して恋愛感情を持っていた訳ではないが、それでも彩は彼に取っては大事な人だった。卒業式の日に彩と写真を取らないことがあるなんて考えたこともなかった。
亜美は秀人の中に住み着いているそんな彩にずっと嫉妬していた。
彼が自分のそばにいてもなお、彼女は彩の存在が不安でならなかった。
翌日、彼はチームメイトや町の人達に見送られ東京へ旅立ったが、その傍らで立ち位置をアピールするかのように微笑んでいたのは亜美で、静岡までの在来線に同乗して付き添ったのも彼女であった。
秀人は懸命に彩を探したが、ホームに彼女の姿はなかった。
2軍スタートとなった秀人は、2年目のシーズン終了間際、急きょ1軍に登録され、6対0となった7回表、消化試合ではあったがプロ初登板を果たした。
ストレートとスライダーの切れがよく、相手にとっては初めての投手ということもあって、9回まで、打者10人に対して、ヒット1本を許しただけで好投した秀人は、8回裏に3点を取り、9回の裏いっきに4点を取ったチームが逆転勝ちし、プロ初の1勝を手にした。
翌日、地元紙はこの秀人のピッチングを取り上げ、来シーズンは1軍スタートが期待できるともて生やした。
卒業して2年後、その年が明けて行われた成人式に出かけて行った彩は、秀人が亜美と二人、皆の輪に囲まれて、プロ1勝目の話題で盛り上がっているのを見て、その場を離れてしまった。
体調がすぐれないと言って、彩が帰ったことを知った秀人は8時前に店を訪れたが、親父さんに制された。
「今日は止めとけ、女は複雑なんだよ、寝かせてやってくれ……」
彼はそう言われて納得できないまま東京へ帰っていった。
翌日から、何度メールを入れても返事がないことを心配した彼は店へ電話したが、親父さんは
「そうか…… 何か迷ってんだなー、ごめんよ、その内に立ち直るよ……」
秀人もすっきりしない日が続いたが、やっと3日後に彩からのメールが届いて、いつもの彩に戻っていることを感じた彼は一安心した。
しかし、野球の方は3年目も鳴かず飛ばずで、シーズン終了後に内野手への転向を打診され、彼はそれを断ったが、4年目も目覚ましい活躍をすることはできず、既に5年目を迎えていた。
その後も秀人からのメールは続いたが、ただ、そのメールは彩が教師として仕事を始めた頃から、亜美への不満が書き込まれるようになった。
『彼女への不満を私に言うな、馬鹿たれ!』
彩がそう返してもお構いなしだった。
そしてその年、シーズンの終了を待たず、彼は来年度、選手枠には入れないことを言い渡された。
合同トライアウトへの参加を勧める亜美に、彼は初めて心の内を明かした。
「だめだよ、自分でもよくわっているんだ。俺の力はここまでだ。これ以上は惨めになるから……」
「じゃあ、私とも終わりね!」
もう彼が輝くことはない…… そう確信した彼女は秀人のもとを去って行った。
亜美は彼に合わせて、東京の大学に進んでいたのだが、彼にとって彼女との時間はとても窮屈だった。
一人住まいをすれば亜美との時間が長くなることがわかっていたし、場合によっては半同棲みたいなことになるかもしれないと心配していた彼は、二十歳を過ぎても球団の寮からは出なかった。
ただ、期間だけで言えば、彼女と付き合った5年間は長かったが、その中身は決して濃いものではなかった。
シーズン中はほとんど二人が会うことはなく、電話やメールのやり取りだけであったし、シーズンが終了しても、彼は土曜日か日曜日のいずれかはトレーニングのためと言って、彼女を遠ざけていた。
彼女と会えば、走り込みが足りないのではないか、あるいは、もっと筋肉補強中心の食事にした方がいいとか、さらにはフォークボールを覚えた方がいい等、素人さながらの意見を大発見のように言われ、彼はいつも責められているような戸惑いの中に落ち込んでしまっていた。
私生活では優柔不断なこの秀人も、こと野球については哲学を持っていて、これまで誰もそこを犯すことはしなかった。
かつて、彼のために懸命に動いていた彩は、そのことがよくわかっていたので、決してその聖域に足を踏み入れることはなく、ただ黙々とその傍らで、できることをやっていた。
しかし、この亜美は彼に輝いて欲しいがために、平気でそこに土足で上がり込み、ずけずけと言いたいことを言ってきた。
彼にとって亜美はもう頭痛の種でしかなくなっていた。
それでも、この男は自分から別れを切り出すことができなかった。
だから、彼女が去った時、彼は心からほっとした。
と同時に思い浮かぶのはやはり彩の笑顔だった。
何かあればいつも自分のそばには彩がいてくれた。
何かあった時に思い浮かぶのはいつもその彩の笑顔だった。
亜美が去り、肩の軽くなった彼は彩へメールを入れた。
『やっと亜美と別れた。でも首になった!』
それでも彼は彩を女性として見たことは一度もなかったし、それは彩も同じだろうと思っていた。
彩は秀人が亜美と別れたことを聞いても昔のように気持ちが高ぶることはなかった。
亜美と別れたからと言って、彼が自分の所に来るとは思えないし、自分も教師としてスタートしたばかりで、大変な時期であったことも手伝って、どちらかといえば、冷めた気持ちでそれを受け止めていた。
ただ、野球については父親から
「そろそろ危ないぞ、その時は支えてやってくれ!」そう言われて、覚悟はしていたものの、それでもその時が来たことを知ると、秀人の心が心配でならなかった。
それを思うと、ここで追い打ちをかけるように迫ることはできない、だから彼女はそのことには触れなかった。
そして、1年間バッティング投手として過ごした彼が、4年ぶりに故郷に帰ってくる。
彩の思いは複雑であった。
故 郷
普通電車しか止まらないこの駅では、この時間になると降りて来る人はまばらで、20人ほどの緩やかな集団の後ろを少し離れて、サングラスをかけた秀人が歩いてくるのを目にすると彩の胸の鼓動は突然急ピッチになり、少し息苦しくなってきた。
改札を出た彼は、ロング丈のチェスターコートをカッコよく着こなし、チラッと微笑みかけてくる美しい女性に目を向け、少しうれしくなったが、それでも、気づかれたか…… と思いながらも平静を装って前へ進んだ。
彩は、自分に気づかなかった秀人に腹を立てると、先程までの胸の高鳴りも忘れて、( くっそう、私に気づかないのか、殴ってやる! )
彼女は後ろから彼に近づき、少し背伸びをするように頭をパチーンと叩いた。
「いてっ、何するんだ!」頭を押さえて、振り向いた彼に
「おのれ、私の前を素通りするんかい!」
「えっ、ええーっ、彩なのか?」目を見開いて驚く秀人に
「お前は彩様もわからなくなったのか、馬鹿たれ!」
彩は少し微笑みながら突っかかる様に言った。
「お前、どうしたんだ……」
そう言いながら頭のてっぺんから、つま先まで見下ろした彼は、美しい女性に変貌したした彩をただ呆然(ぼうぜん)と見つめていた。
高校時代は日に焼けて、真っ黒な顔に大きな瞳だけがギラギラして、がりがりだった彼女を思い浮かべた彼は、色白で少しだけふくよかになって、かつては気にも留めたことのなかった胸のわずかなふくらみを見ると、初めて彼女に女を感じた自分自身が恥ずかしくなって、ほんのりと頬が熱くなるのをどうすることもできなかった。
「どうしたんだって、何よ、超失礼!」
「えっ、いや、変わったなーって思って……」
「はあー、どれだけ待ったと思ってんのよ!」
( 6年よっ! )心の中で叫んでしまった。
「ごめん、そんなに待ったのか?」
「5分よ、彩様を5分も待たせるか?」
「お前、もう少し外見に見合った言葉使いしろよ、中身は昔のままジャン」
「うるさい、行くわよ!」彼女はそう言って車を指さした。
「えっ、彩様は車を運転するのか?」
「相変わらず馬鹿だねー、いくつになったと思ってんのよ、24歳だよ!」
「そうか、24か……」彼は時の速さをかみ締めていた。
「どうすんの? 先に家へ帰る?」
「いや、ちょっと心構えがいるから、先に天丼で……」
「いいの? うちが先で!」
「いい、いい、先に天丼食わなきゃ……」
店につくと
「親父さん、お久しぶりです。こんな時間にすいません」
「おうっ、元気そうじゃねえか、いい女、連れてんねえー」
「父さん!」
「おうっ、なんだ、彩か!」
「あいよッ」5分ほど待つと天丼が出てきた。
普通であれば無頭エビ2匹、アナゴ、玉ねぎ、ピーマン等、新鮮な具材が多く盛り込まれているが……
秀人に出される天丼はアナゴとシイタケが抜かれていて、無頭エビ3匹、特別にサツマイモとレンコンが加えられている。
相変わらずのカラットした仕上がり感に加えて、親父さんが守り続ける秘伝の出汁が絶妙に絡まり、以前と変わらず、どんぶりの世界が彼を和ませてくれる。
昔から彼はこの店に入るとホッとする。
何故かわからないが、暖かみのあるこの空間が彼は大好きだった。
親父さんは、彩と秀人の世界には入ってこない。
4 年ぶりに会った幼馴染が楽しそうに話しているのを影から聞いている。
「あんた、これからどうするの?」
「うん、考えている……」
「相変わらずだね…… 夢はかなわなかったけど、頑張ったんだからいいじゃないの、内野手への転向を断った時点で、こうなった時のことは考えていたんでしょ……」
「うん…… だけど…… 」
「だけど、どうしたのよ、来年もバッティング投手続けるの?」
「うーん」
「違うでしょっ!」
突然彩の語気が強くなった。
彼女は、ここで背中を押してやらないと、彼は動かないし、動けないということをよく知っていた。彼がこの一年どんな思いでバッティング投手をしてきたかということも、時折、送られてくるメールでよくわかっていた。
そのメールの端々に、彼の悔しさが、持っていき場のない苦悩があふれていた。彼女は、彼が亜美と別れて以来のこの1年、冷静に彼を見守ってきた。
1年前、「首になった」とメールが来た時、彼女は彼を追いつめたくなかったから、静かに見守ろうと思った。しかし、1年経った今、彼の苦悩を知った彼女は、彼に次の一歩を踏み出させなければ、彼はいつまでもこの苦悩から抜け出せない、そう思っていた。
その思いが必然的に彼女の言葉を強くしていた。
「えっ」
「プロに関わって生きて行くことが夢だったの? ちがうでしょっ!」
「……」
「プロで投手として輝くことが夢だったんでしょ」
「そうだけど……」
「この世の中には、夢がかなわない人なんて何万人もいるのよっ」
「……」
「かなわないってわかったら、皆、次の一歩を踏み出すのよ…… バッティング投手になってチームを支えるのが次の夢なの?」
方向の決まっている彩は、理路整然と彼に迫り、彼の本音を引き出そうとする。
「それは……」
「そんなわけないでしょっ、夢の近くにいたいだけでしょ、だけど近くにいたって選手登録してくれるわけじゃないでしょっ!」
「彩はお見通しだな……」
「あんたのことなんて、手に取るようにわかるわよっ、おばさんだってどんなに心配していると思ってんのよ!」
「ごめん、わかった、もう止める!」
煮え切らないこの男の決断にはいつも彩が絡んでいた。
秀人が結論したその時だった。
「いてっ、ううっー、腰が……」
「親父さん!」
「父さんどうしたの?」
「腰がいってしまった!」
「ええっー、動けるの?」
「だめだ! 秀人、すまねー、肩かしてくれ……」
二人で手助けして寝室まで運んだが
「参ったよー、明日、昼に予約があるんだよ…… いててて」
「えー、明日、休みでしょっ」
「だから、無理言われてよー 15人だよ」
「どうするのよっ」
「参った……」
「私がしようか?」
「馬鹿野郎、お前にできるかっ。いてててっ、秀人、お前、明日暇か?」
「暇だけど……」
「お前、頼むわっ!」
「親父さん! 俺がバイトしていたの6年前だよっ!」
「大丈夫だ、お前は起用だから大丈夫だ。お願いだ、一生のお願いだ、頼むよ」
「ええっー、ちょっと、練習してみるよ」
「ああ、今日の具材の残りがあるだろ、ちょっとやってみてくれ……」
彼がやってみればなんてことはなかった。
特に、衣の寄せ方は天下一品であった。
揚げるだけなら誰でもできる、難しいのは、周囲に散らした小さな揚げ玉を素早く寄せて、具材の周囲を盛り上げていく…… これがさらなるカラット感を生み出す。
親父さんに言わせれば、指先の器用な秀人は天下一品だという。
高校3年の夏が終わった後、ここでアルバイトをしていた彼に、試しにやらせた親父さんは、その器用さにほれ込んで絶賛したのだった。
天性の器用さは全く衰えていなかった。
見ていた彩は驚いた。
「すごいねっ、父さんより上手いわ……」
「具材は配達してくれるからよ、明日12時に頼むわい……」
「どうしてお前がやってんだって、叱られても知らないっすよ」
「大丈夫、大丈夫」
自宅へ帰ると、母親と兄夫婦が帰宅を喜んでくれたが、申し訳ないほど気を使ってくれた。
痛いほどの気遣いが伝わってくる。
彼の実家は、水道屋で、下水工事も含めて手広くやっていた。
従業員も12人いて、この業界では地域のトップクラスであった。
父の亡き後、店を切り盛りしている兄夫婦も秀人のことを心配していた。
間もなく70を迎える母もこの次男を心配していたが、誰も多くを語らない。
秀人はそれが辛かった。
翌日の天丼屋は大盛況だった。かつての町のヒーローだった秀人の出現に、野球少年チームの父兄会に集まった保護者達は大喜びだった。
配膳だけでも手伝おうと、兄嫁が来ていたが、みんなでわいわいがやがやと、やってしまって、彼女の出番はなかった。
客が帰った後、
「おいっ、次の仕事が見つかるまで頼むよ、まだ当分かかりそうだ……」
「えっー、参ったなー」
「何、参ってんだよ、その代わり、上りは全部持っていけっ!」
「えっー、だけど、お昼は何人ぐらい来るの?」
「30から40かな……」
「それはさすがに難しいでしょ……」
「大丈夫だよ、順番に出しゃーいいんだ、今日みたいに、団体の方が大変だよ……」
「そうですかー、夜は?」
「うーん、夜は20から30かな……」
「油の取り換えは、前と同じなの?」
「ああー、同じだ……」
翌日から秀人が店に立つと、かつてのヒーローを一目見ようと多くの人が、そしてかつてのチームメイトたちが集まって来た。
しかし、誰一人として彼の負の部分を語る者はいなかった。この小さな町から甲子園へ行き、プロになった人がいる。だけど、もうだめらしい。
でも、甲子園に連れて行ってもらって、夢を見せてもらった。
彼だってつらいだろう。暖かく迎えてやらないと……
ここに集まる者達は皆そんな風に考えていた。
燃え上がる思い
彩に背中を押され、地元へ帰ってくることを決意した彼は、1月4日、在来線で静岡の駅まで同行してくれた彩の横顔を見ながら、6年前を思いだしていた。
あの時、意気揚々と地元を出発し、新幹線まで見送ってくれたのは亜美だった。ホームで多くの人に見送られ、この電車に乗った。
俺を静岡まで見送りに行きたいと言った人が何人もいたが、でも結局、皆、亜美に遠慮して地元の駅で俺を見送ってくれた。
しかし今、最後の締めくくりに東京へ帰る俺を見送ってくれるのは彩だけだ…… 誰もいなくたって当たり前なのに、それでも彩は一緒に静岡まで行ってくれる。
この一番辛い時に、隣にいてくれるのはやっぱり彩なんだ……
こんないい女がすぐそばにいたのに、亜美と5年間も付き合ってしまって……
今からじゃ、遅いよな、そんな虫のいい話はないよな……
だいたい、こいつは俺のこと、手のかかる子供ぐらいにしか思っていないし……
「彩……」横から見つめる彼女の横顔が眩しくて、秀人はつい言葉にしてみようかと思った。
「うん? な~に?」自分を見つめる彩の笑顔が、嫌になるほど自然で、彼はつい見とれてしまい、言葉が続かず息を飲んでしまった。
「何でもない……」
「そう……」
いつもなら、はっきりしなさいよって叱られるところなのに、どうしたんだ……?
何か、今日の彩は優しいなー、いいことでもあったのか……
「あのさー、もう決めたんだから、明日には事務所へ行ってはっきりと意思を伝えるのよ」
「うん、わかってる!」
「場合によったら、何か惑わされるようなこと言われるかもしれないけど、揺れたらだめよ。ちゃんと静岡に帰って仕事探しますって言うのよ、いいわね」
「わかってるって、もう子供じゃないんだから、ただ、球団がどこか紹介してくれたらどうしようか?」
「あのね、それこそ子供じゃないんだから、いいと思ったら受ければいいじゃないの!」
「わかった!」
翌日、事務所を訪れた彼は、球団から静岡市内にあるスポーツ用品のメーカーを紹介され、その4月、営業マンとして再出発することとなった。
『 4月から静岡市内のミズックスに勤めることになった! 』
『 良かったね、それで家から通うの? 』
『 いや、家には住みたくない、皆に気を使わせてしまうから…… 』
『 わかった、じゃあ、アパート探しておく! 』
『 助かる、よろしく 』
『 3月初めには帰るから、それまでに決めておいて! 』
『 了解! 』
彩はこれだけのやり取りで、秀人を理解することができる。
そうなると、自分がするべきことは、彼が実家には住まないということを彼の家族に納得してもらうことである。
直ちに、秀人の実家に向うと、彼の母親と兄夫婦を前に
「秀人は4月から、静岡市内のミズックスに勤めることになったそうです。3月初めには帰ってくるって言っていました」
「そうか、そりゃよかった。あいつもやっと安定した生活ができるな」
兄が言うと
「ここから通えるのかい?」
母親が一番気になっていることを尋ねる。
「おばさん、通えないことはないけど、あの子もここに帰ってくるのは辛いんですよ。皆に気を使わせてしまうから……」
「そうなの?」母親は残念そうに俯いてしまう。
「おばさん、時間が必要なのよ、時間が経てば、平気な顔して帰ってきますよ。何か食わせろ、金がないんだって……」彩が懸命に慰める。
「そうだろうかね、そうなってくれたらいいね」母親は顔を上げて彩に微笑む。
兄はその様子を見つめながら、彩の気配りに頭が下がる思いだった。
( あいつは、この人と一緒になれば、絶対に幸せになれるのに! )
彼は、彩に会うたびにいつもそう思うのだったが、彼女はいい大学を出て教師になっている、一方弟は高卒で、やっとここから人生の再出発……
そんな虫のいい話はないか……
最後は諦めに近いところにたどり着いてしまう。
「アパートは私が探しますから……」
「本当に申し訳ないね。彩ちゃんには迷惑かけてばかりで……」
兄夫婦が頭を下げると
「いいえ、とんでもないです。何か、秀人のことしていると、高校時代に戻ったみたいで懐かしいです」
「アパートだって本当は私が探しに行けばいいんだけど、秀人さんの好みは彩さんの方がよくわかってくれているから、つい甘えてしまって、ほんとにごめんなさい」
義姉が申し訳なさそうに頭を下げる。
「お義姉さん、大丈夫ですって……」
微笑んで応える彩に誰もが救われている。
彩は1年半前、秀人が亜美と別れたことを知っても、決して心は躍らなかった。その事実を冷めた思いで受け止めていた。
しかし、昨年の暮れ4年ぶり帰郷した秀人と再会して、わずかな時間を共有してしまうと、心の奥深くにしまい込んでいた得体の知れない思いが頭をもたげて来て、心が乱れ始めた。
その時、高校卒業式の日、野球部のキャプテンだった雄一に言われた言葉を思い出していた。
『もし、彼が一人になってさまよい始めた時に、彩の中にまだあいつが少しでも生きていたら、その時は、また面倒見てやってくれないか……』
( あいつはこんな時が来るのがわかっていたのか…… )
でも、頭をもたげてきた思いは、静かに深く、長い間眠っていた分だけ、吹き出し始めると激しい勢いで彩の全身を覆い尽くしてしまった。
高校3年の夏、秀人が亜美と付き合い始めて、初めて自分の気持ちに気づいた彩はその時のことを思いだしていた。だが、彼女の思いは、ここまで待ち続けた分だけ、さらに大きく、そして濃くなっていた。
彼女は、もう自分ではこの気持ちをどうすることもできないところまで上り詰めてしまい、アパートを探しながら、私だって時々泊まるだから……
そんなことを思いながら、間取りを検討していた。
フォルテシモ
一方、秀人は東京へ帰ってからも彩のことが頭から離れなかった。
彼は、彩が静岡まで送って来てくれた時の電車の中での思いをずっと引きずっていた。
彼女のことを考えれば考えるほど、思いが膨らんでしまって、かつてを思い起こそうとすれば胸が苦しくなって、それでも遡ってみると、これまで自分に関わっていた彩が走馬灯のように蘇って来た。
彩は、触れて欲しくないことには絶対に触れて来なかった。
ここで彩に何か言われると嫌だな、そう思ったところでは、彩は絶対に口を開かなかった。
しまった、と思った時はいつも彩がフォローしてくれていた。
追試の時は、つきっきりで教えてくれた。
スライダーの練習も夜遅くまで付き合ってくれた。ネットに投げ込んだ球をバケツに集めて、運んでくれた。
首になった、って報告した時、もし「これからどうするの」って聞かれていたら、誰に聞かれるより辛かった筈だ。だけど、彩は何も言わなかった。
去年の暮れ、どうにかしたいと思って帰郷した時、あの時、俺は彩に何か言って欲しくて帰って行ったような気がする。彩には、俺の気持ちがわかっていたのか……
おそらく彼女にもう止めろって言って欲しかったような……
そんな俺の気持ちを見透かしたかのように、背中を押してくれた。
彩は俺のためにいったいどれだけのことをしてくれていたんだ!
俺はなにをしていたんだ……
えっ……
もしかして、もしかして彩もこんな気持ちだったのか……
まさか……
そんな……
俺は、そんな彩を前にして、亜美と5年間も付き合っていたのか……
何て馬鹿なんだ、何も見えていなかったのか……
彼女が自分にとっていかに大事な女性なのかということを思ってしまうと、彩の気持ちがわかるような気がしてきた。
ここにたどり着いてしまって、彩の思いを感じてしまった彼はもういても立ってもいられなくなり、荷物を送り出した翌日には、あいさつ回りもそこそこに済ませ、彩が荷物の整理をしているであろうアパートへと直行した。
アパートに着くと、引っ越しの荷物を整理しながら
「たいしたものがないねー、引っ越しの価値ナイじゃん……」そう言って微笑む彩を見て
微笑んでくる彩はいつもの彩なのに……
彩が言うように、ほんとに俺はバカなのか……
彩がどこかへ行ったらどうするんだ……
誰かと付き合い始めたらどうするんだ……
もうどうすることもできなかった。
何も考えることができなくなった彼は、彩を失いたくない一心から、懸命の思いで彼女に向かった。
「彩……」彼が不安そうに語りかけると
「なーに?」彼女が優しく振り向く。
「あのさー……」その後の言葉が出てこない。
「何よ、はっきりしなさいよ!」彼女の語気が少し強くなる。
「彩、どうしてこんなにしてくれるんだ? 去年の暮れ、4年ぶりに帰った時も迎えに来てくれた。アパート決めてくれたのも彩だ、荷物受け取ってくれたのも彩だ。どうしてこんなにしてくれるんだ?」
「はあー、あんた馬鹿?」
「……」( でたー )
「何で急にそんなこと聞くのよっ。どう答えて欲しいの?」
「いや、でも……」彼が俯いてしまうと
「煮え切らない男ねー」いつものパターンになってしまう。
「だけど、俺は……」頑張ってみるが言葉が出ない。
「なんなのよー」
( こいつ、何かおかしいぞ! )
「……」
「あんたみたいに煮え切らないのがいるのに、放っておけないでしょっ」
「えっ、それだけなのか?」
「それで十分でしょ」優しく諭すように念を押した。
「じゃあ、いつまでも面倒見てくれるのか?」
「はあー、あんた、どうしたの? 何かおかしいよ……」
何故か彼女の言葉がフェードアウトしていく。
「教えてくれ! いつまでも面倒見てくれるのか?」
祈るような思いで彼女を見つめていた。
「そりゃ、あんたが望むんだったら、見てあげるわよ!」
あまり深くは考えずに流れに乗って答えてしまった。
「望むよ! そうして欲しい!」
突然の一生懸命に驚いた彼女は
「はあー、あんた、その意味、解ってるの?」
意味も解らずに何言っているの、そんな言い方だった。
「わかってる。彩は大学出ていて、学校の先生して、俺は高卒でプロ、首になって…… ようやく人並みの仕事を始めて…… 」
「もう、結論だけ言って!」
何が言いたいのかわからない彼女は、少し苛立っていた。
「結婚したい!」
「はあー、あんた馬鹿?」
突然のプロポーズに驚いた彩は、頭が真っ白になってしまい、そう言うのが精一杯だった。
「違うのか……」彼は独りよがりだったのかと俯いてしまったが……
「なんでこんなところで言うのよ、それも突然に…… なんで引っ越しの最中に言うのよ…… それ言うんだったら…… どこか、それらしい場所があるでしょっ…… 何なのよ…… 」
胸から上が浮き上がってしまったような感覚の中で、彩は途切れながらも言葉を綴った。
「彩……」再び顔を上げた秀人は祈るような思いで彼女を見つめていた。
大きな瞳に涙を浮かべている彩を見るのは、甲子園出場を決めたあの日以来だった。
でも、今日の彩は、笑顔で涙ぐんだあの日とは違っていた。
切なそうに、持っていき場のない思いに目をきょろきょろさせて、言うに言われないその思いのたどり着く場所が全く見当たらず、ここまでの長い間、心の奥深くにしまい込んでいた女の情念が一気に爆発してしまった。
「いつまで待たせるのよっ!」最初は彩の呟くような言葉だった。
「えっ」秀人は突然、トーンの変わった彩に驚いた。
「150km/hの真っ直ぐが投げれるわけじゃないし、ホームラン50本打てるわけじゃないのに、あなたには私しかいないでしょっ! いつまで待たせるのよっ!」
涙にぬれた目を上げて、一瞬彼を見つめると俯いてしまった彼女のここまでの思いが、秀人の心に突き刺さって来た。
「彩、いいのか?」
彼にはこの言葉が精一杯だった。
親父さんの思い
そして、ゴールデンウイークの初日、二人は彩の父親に結婚の報告に行った。
「秀人、結婚するんだったら店継いでくれよ」喜んだ彩の父親は、いとも簡単に思いを言葉にした。
「えっ、親父さん」秀人は目を丸くしてた驚いた。
「俺はよぉ、お前が野球をやっていた頃、何度か2軍の試合を見に行ったんだよ、先発した時も、押さえた時も、お前は何か辛そうだった。やっと帰ってきて就職して、少しは笑うようになったけどお前の笑顔はひきつってる……」
俯いたまま話す彼は、喜びの中にも何か切ない思いを抱えているようだった。
「親父さん……」秀人も一瞬彼に目を向けた後、俯いてしまった。
「だけどよー、お前が久しぶりに帰ってきて、俺が腰を痛めた時だよ! お前が何日か店をやってくれただろ? あの時のお前は楽しそうだったよ、とても幸せそうだった! あんなお前でいてくれたら、俺は安心できるんだよ……」彼は顔を上げ、俯いたままの秀人に向い、優しく語りかけた。
「親父さん、俺は……」顔を上げた秀人は何かを言いたかったが彼と目が合うと言葉が続かない。
「プロにいた時も今も、お前はどこかしんどそうだ……」
人生を踏みしめてきたこの人の言葉は何故か重みがある。
「……」彼には言葉がなかった。
「秀人、私も父さんと同じ事を思っていた。そりゃー、仕事だから辛いのは当たり前で、どんな仕事だっていやな事はある。だけど、辛い思いを抱えて仕事をするよりも、幸せな思いで仕事ができるんだったら、それが一番よ……」
彩がしんみり話すと、不思議に思いが溶け込んでくる。
「……」彼は言葉が見つからず、無言のまま彩を見つめていた。
「父さんの代わりに天ぷらをあげていた時の秀人は何か輝いていた。遠慮して言えなかったけど、私はあんなあなたを見ていたい! 輝いている秀人のそばにいたい!」
いつもは高飛車な彩が切なそうに思いを語る。
彼の頭の中で、様々な思いが交錯していた。
有機的につながっているものもあれば、無関係なものもある。
色々考えてみるが答えは出ない。
彼はその夜、兄に思いを話した。
「兄貴、彩の親父さんに店を継いでくれって言われたんだ」
「そうか…… 涼子が言っていたよ。以前に店を手伝っていた時、あんな楽しそうなお前を見たのは初めてだって言ってたよ」
「義姉さんも、思っていたのか……」
「俺たちの仕事ってよ、水道はまだいいよ、でもな下水の仕事は大変だよ。トイレの交換だって大変だよ。汚水にまみれることだってある。だけど、俺にはこれしかないからやっているけど、家族もいるしな…… 仕事っていうのはそういうものだよ」
「そうだな、兄貴は高校の頃から手伝っていたもんな……」
「だけどさー、同じ仕事するんだったら、どうせ仕事するんだったら、楽しくやれるんだったら、それが1番だよ」
「……」
懸命に日々を生きている兄に彩と同じことを言われ、彼は店を手伝った昨年の暮れを思いだしていた。
「それに、何よりお前を求めてくれている、これに勝るものがあるのか? あの親父さんほどお前のことを考えてくれている人はいないよ」
「……」親父さんの思いは痛いほどわかっていたが、秀人の思いもまた複雑であった。
「何を迷っているんだ? 甲子園に行ってプロの飯まで食ったのに、天丼屋の大将なんてできないって思っているのか? まだそんな見栄があるのか!」
「兄貴…… 悔しいんだよ、そんなに甘くないってわかっていたけど、やっぱり悔しいんだ」俯いた彼はその苦渋を吐き出した。
「少しは俺にだってわかるよ……」
「兄貴!」
「弟が多くの人に見送られて、この町から出発したんだ。だけど自由契約になって、6年目はバッティングピッチャー、俺だって悔しかったよ。だけど、彩ちゃんの親父さんに言われたんだよ。皆、夢見せてもらったんだぞ、誰がこんな夢見せてくれるんだよっ、夢見れただけじゃ満足できねえのか、日本中の誰もが知っているような選手にならねえと満足できねえのか、ふざけるんじゃねえ、本人がどんな思いで戦っているのかわからねえのかって…… 店でお前の話になるといつもそう言ってたよ」
「兄貴、済まねえ」
「何謝ってんだよ。俺はその日から、誰かに聞かれたらはっきり『だめでした。今年はバッティング投手してます』って笑顔で応えてるんだ」
「兄貴はすごいな」
「親父さんが言ってたよ。『挫折じゃねえ、人間なんだからいつか夢に区切りつけて次の1歩を踏み出すんだ。あそこまで頑張った奴に挫折なんて言うなっ』って怒ってたよ」
「親父さんには頭が上がらねえよ……」
「スライダーだって、親父さんに教えてもらったんだろ? その人が店を継げって言ってるんだろう、黙って継げよ!」
「だけどなー、もし売れなくなったらって考えると……」
「その時は、彩ちゃんに甘えろ! 学校の先生しているんだ、大丈夫だよ。深刻に考えるな、そうなったら迷惑かけるけどごめんって、あっさり言うんだよ」
「兄貴……」
「それから、お前、養子になれ!」
「えっ、名前変わるのか?」
「そうだよ、店だけ継いで、家は知らないっていう訳にはいかないぞ、それがお前の誠意だ!」
「なるほどなー、そういうものか……」
「ある時にな、親父さんと飲んだことがあるんだよ」
「へえー」
「親父さんは、お前にスライダー教えたことを後悔していたよ」
「えっ、どうして……」
「プロに行って大金をつかんでしまったがために、投資で失敗して大借金作った奴がいる、女遊びで破滅した奴もいる、事業を起こして失敗した奴もいる」
この兄が真剣に話し始めると、ぐんぐんと心に突き刺さってくる。
「彼らは、プロで成功する力があったから、そうなってしまった。魂がついていけない奴はそうなってしまう。それだったらプロに行かない方が、いけない方がよかったのかもしれない。少なくても自己破産するような人生にはならなかったかもしれない、もちろん悪いのは自分だ!」
「なるほどなー」
「逆に、一度脚光を浴びてしまって、いつまでも諦めきれずに夢を追い続けて挫折する奴もいる。大将はそんな選手を何人も知っているって言ってたよ」
「そりゃー、そんな奴はたくさんいるよ、俺も知っている」
「そんな奴らも、もし脚光を浴びてなければ、普通に仕事して、幸せな家庭もって、納得した人生を歩んで行けたかもしれない。そこには人としての在り方をどう考えるかっていう問題もあるとは思うよ」
「だけどなー」秀人が、絞りだすように一言口にした。
「いちど脚光浴びて、スターみたいに扱われると、なかなか抜け出せないんだろ……」察したように兄が話す。
「そうなんだ、運が悪いだけだとか、あいつがいたからだとか、コーチが馬鹿なんだとか…… いつまでも人のせいにして、いつまでも力がないことに気づかないんだよ!」
「大将はそれも言っていたよ。だけど、夢を追うことができたことに納得して、それを糧にして生きている人もたくさんいる」
「そうだな……」
「だからお前にはスライダーは教えたくなかったそうだ。お前の人生を左右するかもしれない1コマに関わりたくなかったそうだ」
「そうなのか……」
「お前の身体と、当時の完成されたきれいなフォーム、もう伸びしろはないって思っていたそうだ。当時140km/hは高校生としては合格だ、そいつが高速スライダーを覚えたら、甲子園に行くかもしれない。当時のチームは結構強かったから、投手のお前次第では甲子園もあり得るって考えていたらしいよ」
「そうだよな、実際に行ったんだから……」
「140km/hのまっすぐと、それに近い速さでスライダーを投げることができれば、高校生には通用する、でもプロじゃあだめだ。お前にはそこから先はない、伸びしろがないって思っていたから、下手にスター扱いされてしまうと、お前の人生を狂わしてしまうかもしれないって……」
「そうか、それでなかなか教えてくれなかったのか……」
「だけど毎晩毎晩、ネットに向って投げているお前を見て、そのボールを集めてバケツで運んでいる彩ちゃん見て、つい仏心が出てしまったらしい」
「……」彼はバケツ一杯のボールを重そうに運んでくれた彩の姿を思いだしていた。
「もし、あの時、お前にスライダーを教えていなかったら、お前は県ベスト8ぐらいで、大学へ行くか、就職するかして、お前に見合った人生が待っていたはずなんだって…… お前の人生、狂わしてしまったって、涙流してたよ……」
「そんな……」
「あの親父さんも、高校の時は、県大会で決勝まで行って、甲子園はいけなかったけど、結構有名で、プロのスカウトが挨拶にもきたらしい。でも結局、ドラフトでは指名されなくて、親父さんはそこできっぱりとプロを諦めて父親の店を継ぐ決心をしたらしい」
「何となく、聞いたことがあるよ」
「自分はけじめ付けたのに、お前にはけじめ付けれないようなことしてしまった、迷わせてしまった、って思ってんだな」
「そんなのは、俺の責任だよ、俺に力がなかっただけだよ。それに挑戦できただけでもありがたいって思っている……」
「だけど、あの人のことだ。お前が成功していれば自分が教えたことなんか知らん顔しただろうけど、こうなると自分を責めずにはいられないんだろうな!」
亜美の横やり
結婚が3ヶ月後に決まって秀人は5月中旬、会社を辞め、実家に戻り店を手伝い始めた。
そんな彼に、ある日突然、元カノの亜美から電話が入った。
もう関わりたくないと思っている彼は、携帯には出なかったが、彼女は店の電話に連絡してきた。
「忘れ物を返したいから」と言われ、止む無く店の裏の公園で会うことを了解した彼に、亜美は「やり直そう」と言い寄って来た。
「プロまで経験した人が天丼屋で仕事するの! プライドはないの! 」
彼女の蔑んだような言い方に
「そんなものはもうとっくに捨ててしまったよ、俺は彩と生きて行くんだ、もう放っておいてくれないか!」秀人ははっきりと口にした。
「彩さんは駄目よ、雄一とつきあっていたのに、あなたに乗り換えたのよ!」
亜美が訴えるように迫ってくる。
「まさか……」彼は呆れていた。
「本当よ! あなたにはもっとふさわしい道がある。パパが幹部として会社に迎えるって言ってるの、だから私とやり直そっ!」
亜美も必死だった。
「もうよしてくれ! 」
しかし、秀人はあり得ないと思いながらも、確認して気持ちを楽にしたかったことに加え、雄一の思いは知っていたので、彼に一言だけは謝っておきたかった。
その夜、彼は久しぶりに、当時の野球部のキャプテン、彼の球を受け続けてくれた高田雄一に会った。
「ごめん、俺が嘘ついたんだよ」
話を全て聞いた雄一は真相を語り始めた。
「えっ」
「あいつは、お前と別れた後、モデルになった敦と付き合ったんだけど、付き合う前に、俺に強力しろって言ってきたんだよ。お礼に女子を紹介してやるからってさ」
「そんなことがあったのか?」
「俺は腹が立ったから、彩ちゃんとつきあっているって言っちまったんだよ」
「そういうことか……」
「あいつが彩ちゃんの名前を出せば、ピリピリするのがわかってたからさー」
「えっ、彩と何かあったのか?」
「相変わらず、鈍いなー、お前は……」
「えっ」
「お前のせいだよ、亜美は昔からお前の中にいる彩ちゃんに敵対心を持っていたんだよ」
「えっー、なんだよそれ。意味、わかんないし……」
秀人はそう言ったものの、亜美の言葉の端々に、あるいは彩に接した時の彼女の態度に何度か不愉快な思いをしたことがあった。
雄一に言われて冷静に考えて見れば、確かに亜美が必要以上に彩を嫌っていたことは否めないと思った。
「お前はその…… いいやつなんだけど、その辺は全くダメだなぁ」
「そうなのか?」
「今回だって相手が彩ちゃんだから邪魔しに来たんだよ」
「さすがに、それはないだろう」
「いや、もしお前と結婚する相手が彩ちゃんじゃなかったら、よりを戻そうなんては考えていないよ……」
「亜美ってそんな女なのか」
「あいつの星がそうさせるんだよ。お前を彩ちゃんにだけは渡したくないんだよ…… お前、ちゃんと断ったんだろうな、はっきりと言ったのか?」
「ああ、はっきり断ったけど、その星って何なんだ?」
「人には生まれ持ったものがあるんだよ。まあ、それはいいじゃないか、また機会があれば話すよ。だけどあの女のことだから何を仕掛けてくるかわかんないよ、うかつに乗ったらダメだよ、気をつけろよ」
「わかった。ありがとう」
「でもお前、よく店継ぐ決心したなあ……」
「彩の親父さんに言われてさー、まだすっきりしない部分はあるんだけど……」
秀人が困惑したように話すと、
「何か問題があるのか?」
「何が問題なのかもわからない、ただ、それでいいのかって思うだけだ」
「ははははっ、相変わらずだなー」
「えっー、笑うなよ、参ってんだ!」
「彩ちゃんは何て言ってんだ?」
「うーん、あいつにも困ったもんだ」
「えっー、何だよ、偉そうに!」
「それがさ、切ない顔して、輝いている俺を見ていたい、って言ったんだよ」
「それは、天ぷら上げているお前が輝いているってことか?」
「そうなんだ。去年の暮れに、4年ぶりに彩に会って、それから彩のことが気になって、いろんなこと思いだしてたら、こんな答えが出せない所は、全て彩に背中押されていたんだよ」
「もっと早くに気づいて欲しかったけどな」
「えっ、お前、わかってたのか?」
「当り前だよ、お前がいつになったら彩ちゃんに気づくんだろうって、いらいらしていたよ」
「そうなのか、俺はほんとに愚図だな……」
「愚図じゃないよ。彩ちゃんと結婚するんだからさ、スーパーヒーローだよ」
「えっ、そうなのか、何かお前に褒められると気持ち悪いな」彼は苦笑いをしていた。
「だけどなー、お前からしたら彩ちゃんが背中押してくれたら、何も悩むことなかったのにな」
「そうなんだよ、いつもだったら、ここで彩がそうしなさいって言って決定するのによ、今回は、切なそうな顔して、輝いている俺を見ていたい、って言うもんだから、何か調子狂ってしまって……」
「だけどさ、ここで一歩引くところが彩ちゃんのすごいところだよな」
「えっ、そういうことなのか?」
「この流れで普通の女だったら、勢いに乗ってそうしなさいって言うよ。だけど、自分のことだからさ、一歩引くんだよ。できそうでできないことだよ」
「そうなのか……」
「だけどさ、お前ももう動き出したんだから踏ん切りつけろよ。プロポーズは自分からしたんだろ、彩ちゃんがした訳じゃないだろ? 大事なところは自分で決めて、自分で動いたんだから、ここも頑張ってもう踏ん切りつけろよ!」
「うーん、プロポーズなあ……」
「お前、まさか、彩ちゃんにプロポーズさせたんじゃないだろうなっ!」
「いや、それはないけど、言いかけてウジウジしていたら、はっきり言いなさいって叱られて、結婚して欲しいって、言ってしまった」
「何だよ、それ! 背中押されてなくても、手をひっぱられたんじゃないか…… どうりで考えていたより早いって思ったんだよ、何だよ、そう言うことか……」
「それにさ、嫁さんの家で働くって言うのは、何か、肩身が狭くないか?」
「お前、本当にバカだな、彩ちゃんやあの親父さんがお前にそんな思いさせるかよ! むしろ気の毒なのは、あっちの二人だよ!」
「えっ、よくわかんないな」
「お前にそんな思いさせたくないから、二人は懸命に気を使うよ、それ考えたらサラリーマンしてもらってた方がどれだけ気が楽か、だけど、お前に輝いて欲しいんだよ、あの二人は……」
秀人は、心の片隅に残っていたわだかまりみたいなものが消えてしまい、心地よく帰宅した。
堕ちて行く屑女
しかしその3日後、亜美は久しぶりに会った元クラスメートの久美とお茶をしているときに、
「この前さあ、公園で、秀人と話してたけど、何かあったの?あいつ、彩と結婚するんでしょ、なんで2人で話してたの?」
不思議そうに久美が尋ねると
「うーん、ちょっとねぇ、口説かれちゃって困ったの……」
つい、亜美の口からこの言葉がでてしまった。
「えっー、もうすぐ結婚するんでしょっ、なんて男なの!」
「だからね、私も言ったのよ、彩さんを大事にしなさいって……」
「それでどうなったの?」
「うーん、わかってくれなかったからそのまま帰って来ちゃった」
彼女も意識していたわけではなかったが、それでもプライドが許さず、嘘をついてしまった。
しかし、嘘を言葉に載せてしまった以上、彼女は、この噂が広がればいいのにと思っていた。
その思惑通り、徐々にそのことが噂となって当然、彩の耳にも入ってしまった。
しかし、彩は全く動じなかった。
学生時代、彼女は何人かの男性から告白され、二人きりでお茶したり、食事に行ったこともある、深夜までカラオケで歌いまくったこともあった。
どの男性もいい人ばかりで、しっかりと人生を歩んでいこうとしているのがよくわかったし、優しくて、誠意のある人達だった。
しかし、男性を前にすると彩は何かしてあげたくなる女性だった。その何かは、決して尽くすための何かではなくて、助けてあげたい、導いてあげたい、そんな思いだったから、そうした人達と歯車がかみ合うはずがなかった。
そうした自立した人達といると、彼女は気持ちの張りがなくなり、心がなえてしまうのだった。
彼女にはそれが耐えられなかった。彩が求める男性は、自分を包み込んでくれる人ではなくて、秀人のように自分が包み込んであげないと駄目な人…… 母性本能といえばそこまでなのだが、幼い頃から秀人に関わってきた彼女は、その中で自らの男性像を創り上げてしまっていた。言葉を変えれば、秀人のような人でなければ、彼女の心に入り込むことはできなかったのである。
彩には、こんな明確な思いがあったわけではないが、無意識の内に秀人のような男性を求めていた。
彩に取って、秀人の唯一の欠点は、優柔不断なところだったが、一方でそこが秀人に魅かれるところでもあって、何とも複雑な女心であった。
そんな思いの中で、ここにたどり着いた彩だったから、絶対に秀人を手離すつもりはなかったし、亜美が言い寄ったのであればいざ知らず、結婚が決まったこの局面であの秀人が亜美に言い寄ること等、天地がひっくり返ってもあり得ない、彼女は絶対的な自信をもっていた。
ただ噂が流れた以上、何かが起きたのだろうが、そこに至るまでの経緯や、状況を想像してみてもきりがなく、考えるのが馬鹿らしくなった彩は、そんなことはもうどうでもいい、そう思って気にも留めていなかった。
しかし、それを耳にした雄一は、秀人からもう一度詳しい話を聞き、断られたことに腹を立てた亜美の仕業だということを確信した。
彼は翌週、ミニ同窓会に出席し、チャンスを待っていた。
取り巻き連中から秀人の話が出て
「私も困ったのよー」と彼女が言った瞬間、彼は立ち上がって
「それは違うだろ! 俺は垣根の裏で仕事してて、その話を聞いていたけど、よりを戻そうとして言い寄ったのはお前じゃないか。秀人は彩と生きて行くから、関わらないでくれって、はっきり断ったじゃないか。どこで話が逆転したんだよ!」一気にまくしたてた。
会場内がざわつき始め、20人近くいた同級生は、次々と会場を後にした。
最後に残った雄一は、
「お前が何をどうしようが俺には関係ない。でも俺にとってその大事な2人が結婚して幸せになろうとしている。これを邪魔する奴は絶対に許さない。お前は昔から人が羨むような奴のそばにいて自分が輝きたかっただけだ。だけど彩ちゃんは自分が輝いているんだよ。どんなに逆立ちしてもお前は彩ちゃんにはかなわないよ、生まれもった星が違うんだよ」
「あんたに何がわかるのよ」
「わかるさ! お前は秀人と付き合っていても彩ちゃんのことが頭から離れなかった。 秀人が彩ちゃんに見せるような笑顔を、お前には見せてくれなかった。いつか秀人が彩ちゃんの所へ行くんじゃないかと思って心配だったんだろう。そんなことぐらいわかるよ!」
「わかったようなこと言わないでよ!」
「今回だって相手が彩ちゃんだから許せなかったんだろう。彩ちゃんじゃなかったらこんなことはしていないだろう。だけどお前はもう秀人とは別れたんだ、その秀人が幸せになろうとしているのにそれを喜んでやることができないのか! 哀れな女だな……」
「あんただって哀れよ! 好きな女を友達に持っていかれて何ともないの? きれいごとばかり言わないでよ!」
「お前には人の心がないのか! よく考えてみろ、彩ちゃんは小さな植木に水をやって大事に大事にそれを育ててきたんだよ、やっと花が咲いたらお前はその花だけ切り取って『きれいな花』って言って喜んでいたんだよ…… それは彩ちゃんが育てて咲かせた花なんだよ」
「……」
「彩ちゃんがあいつのためにどれだけのことをしてきたのか知らないだろう。お前は秀人のために何をしたんだよ…… あいつを苦しめただけじゃないか!」
「そんなことは……」
「そんな女に絶対に邪魔はさせない。もうあの2人には関わるな! もし今度何かあったら俺は絶対に許さない!」
さらに深いところへ
その後、東京へ帰った亜美は、モデルの敦との生活をしばらくは続けていたが、いつも多くの女性の目に留まることばかりを気にしている彼に、嫌気がさしていて、二人の間では喧嘩が耐えなかった。
「俺の仕事は、たくさんの女性に認められないとやっていけない。だからスポンサーの娘に招待されれば、パーティーにだって行くし、誕生日会だって行く。女子会にだって呼ばれれば顔を出すよ」
そういう敦に
「まるでホストと同じじゃないのっ!」亜美が蔑んだように言葉を吐き捨てる。
「トップクラスになれば別だけど、俺クラスではこうして努力しないと事務所との契約は維持できないんだよ。そのくらいは察してくれよ」
しかし、亜美は25歳の誕生日、スポンサーの娘からの急な呼び出しに慌てて出ていった敦に、ついに切れてしまった。
『 さようなら、もう私のマンションには来ないで、当分静岡に帰るから、鍵はメールボックスに入れておいて! 』
メールを入れるとその足で静岡に帰ってしまった。
夕方6時に静岡についた彼女は、誕生日の夜を一人で過ごすのが辛くて、何人かに電話を入れたが、全て着信拒否されてしまった。
1ヶ月前の秀人を陥れようとした事件以来、誰一人として、彼女に応えてくれる人はいなかった。
仕方なく、彼女は駅前のカフェでコーヒーを飲んでいた。
少しずつともり始める街の灯が寂しくて、ただ物悲しく外を眺めていた時、仲のよさそうなカップルが笑顔で語らいながら、傍らの歩道を歩いて行った。
男性の顔は女性の方を向いていてよくわからなかったが、男性に微笑みかけた女性の顔ははっきりと認識することができた。
( 彩だ! 男は秀人か! 何なの、あの笑顔は…… 私がこんな思いしているのに…… あの女のせいだ! あの女さえいなければ、ずっと秀人といたはずなのに…… )
プロを諦めた秀人に、この人はもう輝かない、そう思って彼のもとを去ったのは自分なのに、生きてきた道の結果が今の自分なのに、初めて味わう寂しい時間に、それも誕生日という輝きたい時に、彼女はたった一人で、あの女が憎い、皆死んでしまえばいいのに…… そんなところまで沈み込んでしまった。
その夜、眠ろうとしても、彩の笑顔が瞼に浮かんで、悔しくて、情けなくて、やり場のない、この憎しみにも似た思いに惑わされて、いつまでも眠れない彼女はまた人の道を踏み外そうとしていた。
翌日、父親の会社の総務課に出向いた彼女は、会議室に課長を呼びつけ
「ねえ、お給料が上がらなくて、社員の不満がたまっているみたいね……」
「えっ、そうですか…… 社員は現状を理解してくれていますから、組合交渉も順調でしたし、私の所へは特には……」
「あなた、それでよく総務課長が務まるわね!」
「はっ、お嬢さん、そう言われましても……」
「私の耳には入っているわよ!」
「しかし、現状を考えればリストラなしで頑張っているだけでも……」
「そんなことは言っていないでしょ、賃金だって上げることができないのはわかっているわよ。だけどできることがあるでしょっ!」
「と、おっしゃいますと?」
「例えば、天丼の店でお昼を食べてる社員はたくさんいるわよね?」
「はい、私も時々いただいていますが……」
「たくさんの社員が貢献しているんだから、社員に割引券もらってくるとか、社員証を見せれば1割安くしてくれるとか、会社の支出なして社員のためにできるでしょ。そのくらいの交渉はしてきたっていいんじゃないの…… ただ、私は同級生だからこんな話には絡めないけど、総務課が社員のために、頑張ってもいいんじゃないの!」
「お嬢さん、実は以前に交渉したことがあるんですよ。でも断られてしまいましてね……」
「それで断られてどうしたの?」
「いや、特には……」
「はあー、何よそれ! 子どもの使いなの!」
「いや、でも……」
「でもじゃないでしょ、『それだったら、社員はここに来させません』ぐらいの脅し文句も言えないの!」
「さすがにそこまでは……」
「あなたは、席に座って一日、印鑑をついているだけなの?」
「いいえ、そんな……」
「いいわよ、社員のためにそんなこともできないのなら、来月から私が総務課長になるわっ、あなたは後進に道を譲りなさいっ!」
脅かされた総務課長は、店にやって来て親父さんと話したが、当然のごとく断られ、亜美の作った文書を社内に回覧した。
『 現在、丼の店と本社に置いて、交渉を進めている案件がありますが、なかなか協力を得ることができません。
今後は本社の情報漏えい防止の観点から、可能な限り当店には立ち入らないことをお願いいたします。
ただし、これは決して強要するものではありません。
今後、情報の漏えいが発覚した場合には、当然、出入りしていた社員が疑われる可能性がありますので、そうした将来的な社員保護の観点から、お願いするものであります。
平成28年7月15日
総務課長 』
これを見た、社員の間ではその交渉内容が取りざたされたが、何かあった時に疑われてはかなわない…… そんな思いから、ほとんどの社員が丼の店に来なくなったしまった。
店がすいていれば、他の人が入っては来るものの、それでも売り上げが3割近く落ち込み、秀人は頭を痛めていた。
義理堅い人
そんなある日、プロ野球時代の後輩が、名古屋からの帰りに、わざわざ新幹線を静岡で降りて、秀人の店に顔を出してくれた。
彼は、今や時の人で、開幕以来、7連勝中の投手、松尾であった。
彼は、秀人のスライダーにあこがれていた投手で、秀人が球団を去る前日にやって来て別れを惜しんでくれた唯一の人間であった。
秀人は薄暗くなったグランドで、彼にスライダーを投げさせた。
スライダーになっていない…… そう思った彼は、
「松尾、スライダーって、曲がる玉だと思う? それとも真っ直ぐだと思う?」そう尋ねると
「先輩、そりゃ曲がる玉ですよ」彼は笑いながら答えた。
「違うよ、スライダーはまっすぐだよ」
「えっ、どういうことですか」
「握ってみろよ」彼がボールを握ると
「うん、中心から指一本か、きれいだな」
「先輩、どうしたんですか?」
「お前さ、それで真っすぐを投げてみろよ」
「えっ、それは無理ですよ、絶対、曲がりますよ」
「だけど、そこを曲げずに真っ直ぐを投げてみろ」
「できるんですか?」
「やるんだよ」
彼は不思議に思いながら、秀人が構えるミットをめがけて、渾身の思いでストレートを投げた。
一瞬、秀人の2.5m手前でボールが消えたのかと思うほど、球は左に逃げて、秀人はそれを取ることができなかった。
驚いたのは投げた松尾だった。
「先輩!」
「松尾、これがスライダーなんだよ……」
「先輩! 」
「今年は、10勝は固いな……」
「先輩、ありがとうございます。絶対にこの御恩は忘れません。ありがとうございます」
秀人はこんなことを思いだしていた。
「おい、今年はすごいなー、破竹の勢いじゃないか……」
「先輩のおかげですよ。静岡には足向けて寝ていないですから!」
「大げさだな……」
「そんなことないです」
「お前だから、あのスライダーが生きるんだなー、俺は駄目だったけどね……」
「先輩っ、でも美人の奥さんと幸せらしいじゃないですか?」
「まだ、結婚はしていないけどな、でもありがとうよ」
「実は、今日、帰る前にテレビ取材があって、このまま東京ですかって聞かれたから、美味い天丼の店があって、名古屋からの帰りには必ず寄るし、東京から食べに来るときもあるって、ここの店、宣伝しましたら、そんなには来ないと思いますけど、もし迷惑かけたらすいませんね」
「そんなことはないよ、ありがとう、だけどお前、食ったこともないのに大丈夫か」
「大丈夫ですよ、先輩の顔思いだしたら、絶対に上手いって思ったんですよ」
「そうか、ありがとう」
そして、その翌日から何故か見知らぬ顔を見るようになった。
特に土曜日、日曜日には遠くから足を運んでくれる客もいて、売り上げは徐々に回復していた。
屑女再生の道は遠く……
そして、総務課長が文書を回覧して、2週間が過ぎた頃、そのことが高田雄一の耳に入ると、彼は亜美の顔を思い浮かべた。
どう考えても、亜美の父親の会社と、丼の店が、交渉している案件などあり得ないし、秀人に確認しても呆れていた。
彼がSNSで呟き始めた。
彼はまず理由もわからず、社員に課された会社側の一方的な文書を疑いもしないで受け入れている組合を罵倒した。
組合の委員長は慌てて、総務課長に問いただしたが、歯切れが悪い。
その内には、この話が亜美の父親である社長の耳にも入り、全ての事実が明確になり、この文書は、全てが解決したとされ、撤回された。
翌日から、丼の店は賑わいを取り戻したのだが、娘の愚行に呆れた父親、筋木工業の社長は、雄一を会社に招いた。
「高田君、何とかならないだろうか? 」
この社長は若い頃より、父親に従い、ある易の先生にお世話になっていたのだが、最近は、先生の指示によりその弟子である高田雄一がこの社長の相談にのっていた。
「社長、私もその都度、対応してきたつもりですがなかなか、成果が出ませんね」
「どうにもならないか……」
「社長、県北に女性だけの集団で自給自足の生活をしているところがあるんです。そこは、生きて行くことに疲れた人や、心に迷いのある人、失恋して死のうかと思った人、様々な女性が生活しています。力を取り戻して社会に戻って行く人、そこから離れることができなくなる人、来ては帰りを繰り返している人、果実はそれぞれですが、知らない人達の中で自分を見つめなおすことができる…… そういう場所があるんですが、ただ……」
「ただ…… どうしたのかね?」
「うーむ、彼女がそこへ行くと、もうここには帰ってこないかもしれません……」
「えっ、もう会えなくなるのかね?」
「いえっ、そういうことではありません。時々は顔を見せるでしょうが、拠点をそこに置いてしまって、そこで多くの時間を過ごすようになると思います」
「そうか…… でも、そこで生活して、人として恥ずかしくない人間になることができるのだろうか……?」
「ええ、そうなっていくと思います…… でも5~6年かかると思います」
「もうそれしか道がないのかね?」
「難しいですね……」
「君が話してくれるのか?」
「はい、私が話した方がいいでしょう」
「よろしく頼む!」父親は苦渋の決断をした。
翌日、会社の応接室で亜美が待っていると、高田雄一が現れたことに彼女はとても驚いた。
「何であんたが来るのよ!」
「まあ、そう怒るなよ」
「何が怒るなよ、全部、あんたのせいだからねっ、あのSNSの呟きだってあんたでしょっ、わかってるんだから!」
「お前さ、よく考えてみろよ、全てはお前の罪だよ。俺はそれを正しい軌道に戻しただけだよ」
「何が正しい軌道よ、そのおかげで私はもう誰も相手にしてくれなくなったわ、あんたのせいよっ!」
「俺はさ、お前の罪をそのたびに清算させて来たんだよ。あんな罪、全部背負って一度に清算することになったら、命落とすことになるよ」
「ふん、死んだっていいわよっ」
「でもな、すんなり死んであの世の地獄に行ければいいけど、この世の地獄に落ち込んだらどうするんだよ」
「……」
「親父さんだって辛いよ、俺だって辛いよ。だからその都度、罪を償わせてため込まないようにすることで精一杯だったんだよ……」
「何よ、美味いこと言わないでよ……」
「人って言うのはさー、道を踏み外しちゃダメなんだよ、生きていれば思い通りにならないことの方がはるかに多いんだよ。だけど、みんな歯を食いしばって頑張っているんだ。お前みたいに腹が立つたびに何かやってたら、ほんとに生き地獄に落ちてしまうよ」
「今頃、そんなこと言われたって、どうにもならないわよっ……」
「おまえはさ、これからどうしたいんだ?」
「何もしたくないわよ、誰もいない所に行きたいわよ。もうこんな町なんていやよ……」
「だからさ、そこが間違ってるだろ、周りの皆が最初からお前を敵視していたわけじゃないだろ…… お前が罪を犯して、お前がその報いを受けたんだろ、その結果が今なんだろう」
「もういいわよっ!」
「よくないよっ、誰も悪くないんだ、悪いのはお前なんだよ、そこを理解しろよ、そうじゃないと、どこへ逃げたって同じことになるよ」
「もういい、そんなことはわかってる! だけど…… だけど、もう取り返しがつかないじゃない……」亜美は目に一杯の涙を浮かべて、すがるように雄一に訴えてきた。
「そんなことはない、いまはマイナスだけど、ここから取り戻していくんだよ」
「そんなことできる訳ないよっ!」
「できるよ、俺がついているからできるよ……」
「あなた、いったい何なのよ、パパの所によく来ているけど……」
「人間って、皆、生まれながらにして星を持っているんだよ」
「えっ、星って……」
「まあ、宿命みたいなものだな、放っておいても成功する奴、どんなに頑張っても報われない奴、色々居るんだよ。だけど、それに負けないで、道を踏み外さないで頑張って行けばいつかは明かりが見えてくる。だけど、負けてしまったら、取り返すのにもっともっと頑張らなくっちいけなくなる」
「あんた霊媒師なの?」
「はははっはっ、まあ、似たようなもんだよ」
「へえー」
「腹が立つかもしれないけど、もう少し聞いて欲しいんだ」
「……」彼女は黙って頷いた。
「例えば、お前の嫌いな彩ちゃんはな、生まれながらにすごい星を持っているんだ。人間って、運がいいと、努力しなくなったり、人のために尽くそうなんて考えなくなってしまうんだけど…… だけど、あの子はその上に胡坐をかいたりはしない。人を大切にして毎日を大事に生きているんだよ。秀人の魂に触れてしまって、懸命にあいつを輝かそうとしている。だけど彼女の輝かすっていう意味はお前が考えている輝きとは意味が違うよ。どこにいてもいいんだけど、どんな仕事していてもいいんだけど、秀人が1日1日を大切にして、笑顔で生きて行くことができたら、それでいいんだよ。彼女に取って秀人が輝くっていうのはそういう意味なんだよ」
「……」
そこまで話しを聞いてしまうと、憎くて憎くて仕方なかった彩が、自分とは全く異なった、何かすごいところで生きている人のような気がして、亜美は無言のまま俯いてしまった。
「去年の暮れ、彩ちゃんの親父さんが腰を痛めて、秀人が天ぷらを上げていたことがあるんだ。その時のあいつは幸せそうだったよ、彩ちゃんだってそれに気づいたはずだよ。だから、今の秀人は輝ける場所に居るんだよ」
「……」
彼女はプロにまでなった人間なのに、天ぷらやで働くのか、プライドはないのか、そう迫った自分の愚かさに、今さらながらに押しつぶされそうになっていた。
「お前は、野球で有名になれなかった秀人は、もう輝けないって思ったんだろ、だから別れたんだよな……」彼は静かに、諭すように続けた。
「だけど、そんなレベルの高い話されても……」
雄一の話は、聞けば聞くほど亜美を落とし込んでいく。何となく理解はできるが、人として低いところまで落ちてしまった彼女からすれば彼の話は、聖人君子にでもなれって言っているかのようで、自分の今の人生からは相当にかけ離れていて、とても手が届きそうになかった。
「県北の山奥にさ、女性だけで自給自足の生活をしているところがあるんだよ。生きて行くことに疲れたり、心に迷いのある人、失恋して死にたいって思っている人、旦那の暴力から逃げている人、様々な人達が一緒に生活しているんだよ。力を取り戻して社会に帰って行く人がいれば、そこに居着いてしまう人もいる。来ては帰りを繰り返して、自らを調整している人もいる。そんな知らない人達の中で自分を見つめてみろよ…… 思い悩んでいることが馬鹿みたいに思えてくるよ。今の人生を変えるって考えたら大変だけど、一度リセットしてしまえば、そんなに大変でもないよ。そこで納得したら、帰って来て、秀人の所へ行って二人に頭下げるんだよ。そして秀人の天丼食って、おいしかったって笑顔でお礼を言うんだよ。そしたらお前の周りにも陽がさしてくるよ。 そして俺と結婚しよう」
「えっ、なんでそうなるの、あんた、パパの後、継いでくれるの……」
「社長なんて、身内じゃなくてもいいじゃないか、会社が存続していけば、従業員の生活は守ってあげることができるよ」
「なるほどね、そういう考え方もありかもね…… でも、そこはあんたのお勧めなの?」
「ああ、今のお前のためにあるようなところだよ……」
「わかった、あんたがそこまで言うんだったら行ってみるよ、だけどあんたと結婚するかどうかは自信ない…… でも、あんたは待っていて!」
「はははっは、帰って来たときに、嫌だと思えばしなくていいよ、そうなれば俺もその方が楽になるからさっ」
そして二日後、亜美は雄一に見送られて出発したが、心身ともに回復した彼女は
(どうして私が修行みたいなことしなくちゃいけないのよっ! 馬鹿みたい)
そう思ってしまい、最寄りの駅では降りずにそのまま北に向ってしまった。
一方、雄一は
(あそこにたどり着くまでに、2~3年はかかるだろうな……)
そう思って大きなため息をついた。
完
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作者はその一言がいただきたくて物語を書き続けています。
面白かった、どうでもよかった、まあまあだったetc…… どんな一言でも構いません。